過剰な一般化とその判定の厳格化
なんて悪いことをする人がいるんだ、この国終わったな
なんていいことをする人がいるんだ、この国始まったな
ある人が一部の人を見てその集団を一般化したがることについて、いまさら何かを言うつもりもない。ありふれたことだから。
ただ、その一般化には判定が伴う。これはいいことだ、悪いことだの判定。それは時がたつほど厳格化されていくのだろうか。
今は、「出来事」を文字化して広めることがどんどんできるようになっているからなおさらなのだろう。
「あの人はあんなことをしていたんですよ」「まったくあの地域の人は」というように近所の噂から過剰な一般化が生まれた日常生活。今だって実家の方ではそんな一般化が暗黙の了解として地域と地域、家と家の触れ合いにも立ちはだかっている。
今ではそれに加え、「あんなことをしていた」が体験談として、日記として、SNSとして、文字通り網の目のように広がっているのだ。そしてそれを読んだ人が「あんなこと」が「受け入れられること」なのか「受け入れられないこと」なのかを判定するようになっている。
法の判定ならば分かりやすい。「あんなこと」が法に触れるのか触れないのか。明文化されている以上判定はできるし、専門家に任せることもできる。
近所ならば広まりにくい。ローカルルールの延長線上とも取れる。判定は一部の人間の主観とみることができる。物凄い数の人が認定しない限り、その判定は広まらない。
今ではたぶん、マナーや、思考まで判定されうる。
文字化されてしまうから。
それが広まってしまうから。
それを読んだ人が「これはいいことだろう」「これは悪いことだろう」と考えるだけならなにも判定は広がらない。
今は、その判定すらも文字化される。「いいと思っている」「悪いと思っている」が可視化され、数値化され、議論が広まる。「こんなことをしている」人の可視化だけでなく、「こんなことをするのがいい/悪いと思っている」人が可視化される。
そうなると、「これは主観だろ」から「判定を厳密にしよう」となる気がする。
言いたいことは分かった、じゃあ判定基準を作ろうじゃないか、と。「いいと思う」「悪いと思う」だけじゃ話は終わらなくなる。「いい」「悪い」を判定すべく、どこからか引用したり、どこからか話を聞いたり、数値化したり、賛同を集めたりする。
そしてこの、判定基準を「集団(と思っている)」ところで、一般化したがるようになる。こんなデータがあるんだから、これはこういう判定になるに決まっている、と。
近所における一部の人の噂話だったら、そうして作られた判定は、「一部の人の噂話」そのもので済む。明文化はされず、いつか忘れ去られる。
だけど、今は文字化されてしまうから。
判定基準も、「ルール」として、どこかに記される。残される。
それが広まってしまう。
明文化されていないマナーも、モラルも、思考も、どこかに書かれ、判定され、その判定ルールが追加される。
いつまで厳格化されるのだろうか。
いつか体験談も書けなくなる時が来るのだろうか。
書く人は、ルールを作ってほしいわけじゃない。でもこれからは。
書いた瞬間、広まり、「いい」「悪い」がコメントに付け加えられ、議論され、判定され、採決がとられ、判定ルールがどこかに記され。
体験談に、「いい」「悪い」のラベルが付く。
集団の認識すら曖昧になってきた、これから。
なんでも集団になりうる。一定話題の集合を、サービスの利用者を、網の目の膨大な人々を、集団とみたがり、一般化したがりうる。
過剰な一般化は止まるかもしれない。より厳格に、「うちはうち、その人はその人」が適用されるかもしれない。
なら、ルールの明文化はどうなるだろうか。
中央に置かれる石板には、何が書かれるだろうか。
不完全な集団による、必ずしも平らと言えない一般化が、そこに書かれるだろうか。
それとも、一番上に、「うちはうち、その人はその人」と書かれるだろうか。
今までは、石版の心配はする必要がなかった。あまりに丸くて、中央が存在しなかったから。
これからは、石版がどこにも置かれうる。手の届きやすいところに置かれる。手の届きやすいところに複写される。
文字化するから。
そこに書かれたルールはどれだけ厳密になるだろう。あらゆる事象が判定される魔法の石板になるだろう。
いつか皆、その石版だけに従うようになるのだろうか。
石版にお伺いを立ててから体験談を書くようになる、そんな操られたところが、幻視されて仕方がない。
だいじょうぶ、しんぱいしすぎ。