諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

理不尽な要求

 理不尽な要求というのは時に人を困らせる。
 ……みたいな固いスタートからいろいろ書こうと思ったものの特にオチも浮かんでいないし適当に。


 キャラクタが作中でなんらかの要求してきたとする。
 要求と一口に言ってもいろいろあるだろう。たわいない甘え、無邪気な我儘、冗談交じりの振り。
 その中でも理不尽な要求、叶えられないようなものを突然突きつけられたら。


 ヤンデレ。あいまいなくくりよくないとは分かっているので便宜的な例えとしか用いないことにする。
 そう呼ばれている割合が多いキャラクタ自体にはそれほど嫌悪はない。けっこう読むし。
 ならどうしてそこに怖さが出てくるのか。
 恐怖の元は理不尽な要求なのかな、と。
 叶えようがないものを求められる。できるのが当然のように。
 そしてまあ、パターンによっては、叶えられない時のペナルティというのも大きく配置される。


 誰であろうと理不尽な要求というのはかなりの力を持つものだと思う。
 あるいは力の差異によりその理不尽な要求をすることができる。

「碧の軌跡」クロスベル自治州の政治的背景の確認まとめ

 ずうっと前にgoogle documentに置いていたテキスト。改めてこっちに貼っておく。たしかネタバレ対策で書いたんだったかな。ちょっと書き直し。元のファイルは消す予定。

                  • -

碧の軌跡」クロスベル自治州の政治的背景の確認まとめ  更新2011/10/14

 タイトルの通りです。作中政治的内容の解説・分析。ネタバレ満載。プレイ終了後に確認のため読むことをお勧めします。一応各章の話題で分けておきます。

        • -

二章終了後

■内容の整理
 二章メインイベントにより、クロスベルおよび諸国の思惑がはっきりと描写されるようになりました。本稿ではそれについて整理します。

 クロスベルの不安定さについては零の軌跡(以下零)でも語られているところですが、二章においてはそれが各国の立場から描写されました。
 独立していないクロスベル自治州がカバーできない点は主に二つ、「防衛力の不足」と「主権の不定」だと思われます。
 現実世界における「国の独立に必要な点」は有名ですが、あれは国際法からの要請のみならず実際の面でも重要です。「国民」、「領地」、「主権」ですね。そのうち前の二つはクロスベルでも当然持っていますし、作中で言及される他従属国も持っていることでしょう。というわけでクロスベルが安定するには独立として必要な「主権の完全確保」およびそれらを守る「防衛力」になるわけです。要出典。
 難しい理由は作中で重要なワードが示されました。「宗主国」。他従属国は宗主国を持っているために「主権の確保」や「独立の承認」が可能であったのですが、クロスベルはその特殊な性質上、独立が可能ではありません。帝国も共和国もただ承認することはほぼないからです。また、「法による独立宣言」も難しいのは会議中に語られました。国でない以上、法の持つ拘束力が弱いからです。
 そのため、重要なのは、他国に依存しない防衛力を確保すること、独立を宣言できる何らかの安定した場所を確保することになるわけですね。
 防衛力の不安に関しては作中で語られています。「教団事件」によるものですね。軍備が制限されている以上しょうがないのですが、拡張するには現状で帝国および共和国の承認が必要であり、二章時点で承認されることはほぼありません。
 主権の不安に関しては、どうなんでしょう? 議会制であることは示されていますが、自治州法は作中解説の通り貧弱で、投票制や主権者も明示されていません。議会でただ独立宣言しても帝国共和国承認が必要となる以上どうにもなりません。
 これらを前提において、会議後半において各国が提示した提案を見てみましょう。

■各国提案の整理
1.帝国の提案 
 警備隊の撤退、他国軍備・それも帝国軍のクロスベル配備。
 いかにもトンデモではありますが、実はある程度理にかなっているんですね。作中でも語られている通り、警備隊ではクロスベルを守りきれない可能性があります。その根拠はご存じ「教団事件」および「二章の某イベント」。よって、制限された警備隊装備よりも他国の軍備を入れろ、そうすれば軍事的に安定するから、なんて提案なわけです。
 しかしながら他国はこれを受け入れるわけにはいきません。軍事力を抑えられるとクロスベルは政治も難しくなり、それこそ帝国に首根っこを持たれるどころか帝国領土の拡張そのものになりかねません。クロスベル当国どころか共和国その他も拒否するのは当然のことでしょう。議長さんが興奮して立ち上がったのもうなずけます。

2.共和国の提案
 警備隊の軍縮、東門に共和国の、西門に帝国の軍備をそれぞれ。
 ひねり手ともいうべき提案。共和国側がなぜこれを言い出したかというと、1.の帝国案を受け入れるわけにはいかないことと、安穏ながらも両国が牽制としてクロスベルを使いやすくすること、なんてことがあげられます。提案の根拠は1.と同様。
 帝国としては面白い提案でしょう。なにせ帝国としても本気で1.の提案が通るとは思っていません。しかし西側に配備することは可能なわけで、それこそ描写されている列車砲でも置けば共和国へのけん制となります。クロスベルへの干渉もより楽になるわけで、利点は多いです。
 しかしクロスベルとしては受け入れるわけにはいきません。警備隊縮小どころか両門へ別国が配備されると戦時ではいいようにされかねず、しかも先述した「領土」領域の明確な定義も難しくなり、クロスベルがどんな土地になるのか定義することもできなくなります。
 さすが狸と称される彼の提案。特務支援課が「ひどい……」とか言い出すわけです。

3.市長の提案
 イベント後、二章を締めるディーターさんの提案。
 ディーターさん的には一番いいのでしょうが、二章時点ではかなり難しいと言わざるを得ません。ここで前文の二つ、「防衛力の不足」「主権の不定」が関わってくるわけです。
 防衛力の不足。これは作中で語られました。クロスベルは警察・警備隊の維持だけで守りきることが難しいという状況です。これでは国家の三要素を維持できなくなる可能性があります。ちなみに「クロスベルの宗主国がころころと変わっている」という台詞により背景が説明されています。クロスベルは歴史的に独自防衛力を持つような状況に置かれていないわけですね。現在の帝国共和国連携もそういう事情によるものが大きいのでしょう。
 主権の不定。これはちょっと憶測入るかもしれません。一応議会制であることは描写されているものの、クロスベルの主権がどういう状況にあるのか、自治州法の描写が不定でよくわかりません。完全に州民が主権を持っている場合それこそ独立はそこを足掛かりにすべきなのでしょうが、そうもいかないようです。議会決定で独立宣言してもどうしようもないのではないか、なんて思います。だいいち選挙制なんでしょうか。それどころか共和制なのでしょうか。自治州法が独立でないのに共和制て。
 そしてこの主権の不定により、独立宣言を周辺国が認めるか否かという問題にもつながっています。それこそほかの従属国のように法国が認めて、という流れになれば大陸的にも認定につながるのでしょうが、認定をどう得るのか難しいところです。
 というわけで各国の反応予想。帝国共和国はこれらを良しとしないでしょう。まず一つは税収10%問題。独立した場合これがなくなることから、彼らはクロスベルというお小遣い稼ぎボックスを手放すことはないでしょう。次に、クロスベルが商業的重要都市であるため、独立した場合取引等のルールが変更になります。関税などがそうですね。さらに軍事的問題とすれば単純に他国干渉がより複雑になることでしょう。リベールはかなり好意的だと思います。それは不戦条約。「国」であることで結ぶことのできる条約を、クロスベル独立後に再び結び直せば周辺の安定につながるからです。
 最後にもう一点。独立はクロスベル自体にとっていいものになるのでしょうか。

        • -

インターミッション終了後
 独立のためのディータなんとかさんの布石が示されました。自治州法準拠ですし国際法拘束力もないので、それこそ本当に意思表示というか周辺国へのポージングといったところでしょう。議論活性化は重要なところではあります。しかしながらこんなイベントを行おうとすると、賛成していない組織はどう思うのか。その辺り気にしつつ三章とかみていこうかと思います。

        • -

三章終了後

 政治面から見れば、たぶん布石回、なんでしょう。政治的内容についてはいくつか。
 独立に向けて動き出そうとするクロスベルとそれを阻止したい帝国共和国が揺らがせようとする展開。
 経済的動脈である鉄道に関する問題。もっともこれはそこまで政治的にかかわってくることではないのでしょうが。
 猟兵団の動き。これもまたストーリーとしては政治面と別方向。第一、帝国はこれだけの猟兵団を動かせるならクロスベルを揺るがすのも簡単な気がしないでもありません。

 三章についてはストーリー展開について色々感想を書いていますが、それはまた別の場所で。

        • -

 とりあえずここまで。4章以降は政治的内容についてがっつりかかれているので、ここで補足するようなことはあまりないような気がします。以後はゲームにて。

ボードゲーム日記:改めて囲碁を覚えようかと

 将棋や麻雀は、それこそ幼稚園くらいの頃から父に教わり始めた。
 将棋に関しては、幼稚園時代のアルバムの一言コメントにその証拠が残っている。他の子は「アイスクリームやさんになりたい」とか書いているところ、私の所には「しょうぎたのしい」などとあった。どうかと思うけれどネタにはなる。
 もう少し大きくなるとできるゲームも多くなった。オセロからチェスからバックギャモンから、チェッカーやポーカーまで。
 やはりそこでも父の影響は大きい。チンチロやトランプのおいちょかぶ。こうしてみると父はギャンブルが好きすぎる。まあ、「ほどほどに」ギャンブル好きという性格は受け継いでいると自負している。深追いはしない。


 それでも、できないゲームはあった。
 そのひとつが囲碁だ。
 父ができなかったために教わることがなかった、という要因は当然ある。家に道具もなく、あまり触れる機会もなかった。一時期の囲碁ブーム再燃の際にもちょっと覚えようとは思ったけれど途中で断念。
 そんな感じで、私の中での囲碁は、「だいたいのルールは知っているがプレイできない」という珍しい状態になった。


 囲って石取りゲームくらいならできた。オセロ版で友達と。ただルールを決めていなかったのでコウなどは無視。そういうのでは当然おままごとみたいになるわけで、囲碁の感覚をつかめたとは言い難い。
 分からない点については整理していた。勝利条件、地というのは一体なにでそれは言葉で定義されているのか、序盤なぜそういう場所に打つのか。
 しかしこの疑問は長く解決されなかった。


 そして、最近。
 出先でボードゲームの会話になりいろいろ持ってきたりして、ある程度流行らせることに成功した。また、出先にもともとおいてあるものもあった。将棋、麻雀。
 そんなレパートリーに、囲碁というものは突然現れた。
 この間日記でも書いた、数週間の引っ越し。移転作業。その時の廃棄場所に十九路盤セットがあって、それを同輩が拾ってきたのだった。
 そんなわけで、囲碁に再び触れる機会ができた。

                  • -


 囲碁を知っている先輩による講座。そこから始まった。
 十九路盤から始めるわけにはいかない。当然だ。九路盤から。
 ルールはある程度抑えていたので、せっかくだし、初心者らしい疑問をぶつけて、先輩に答えてもらうという流れにした。
 一つ目。
 私は適当に盤を指さす。
「どうしてこの辺から打つんですか?」
 序盤の動きについて。
 囲碁をみているとだいたい三々(端から3,3のところ。以後便宜上座標で)の場所とか星(4,4)とかに打っているような印象がある。ぼんやりながら。ちなみにこういう「印象」というのは麻雀やっていない人が麻雀を見て「十数枚の牌を引いて捨ててたまに全部表にする」というような印象と変わらない。大まかなくくり。
 ただやはり、序盤というのは重要だと思う。麻雀で初手にその牌を切るのは、その牌を持っているとアガリまでの手数が遠くなるためだ。チェスで初手白e4なのは、オープニングで中央へ進ませつつ他のコマの動かせる場所を増やすためだ。オセロで序盤取りすぎないようにするのは、中盤以降の取れる場所を生かすためと、相手に囲ってもらうためだ。7ならべでAやKを置くための布石行動をとるのは、それらのカードが置きにくいからだ。
 そういった定石を知ることで、初めて破戒が生まれる。その他の手を考えることができるようになる。なぜその手が良手/悪手なのかわかるようになる。
 先輩は教えてくれた。
 端と中央、何が違うか? それは、囲われやすさ。例えば角(1,1)に黒を置いたら、白を二か所(1,2)と(2,1)に置くだけでとられてしまう。しかもそれを防ぐよう、黒(1,1)、白(1,2)、黒(2,1)、白(2,2)と縦に伸ばしていくと、いつかはやられる。
 辺の石を囲うには三か所。中央は四か所。
 石を取られるとその分はハマと呼ばれ終局後地の埋めに使われる。簡単に言うとマイナスポイント。
 なるほど。
「なら、囲われにくい中央から押さえていくべきでは?」
 ……中央は、囲われにくいが囲いにくい。三々に打つと、相手がそれよりも内側に打ったところで囲って取りやすくなる。つまり角を自分の陣地っぽく牽制する手ということ。
 そして三々とかそういったのの外側の手として、星やら小目やらがある、と。……
 こんな感じの説明だった。模擬戦をやってみると納得できる。取られるか、取るかという位置取りのようなもの。
 ちなみに、教わるうち、この「牽制」こそがどうやらカギになるらしい、と私は思った。牽制合戦。


 二つ目。
「『地』って何ですか?」
 雰囲気的に言われても、さっぱりわからない。最終的にはその数が勝利ポイントになるはずなのだけれど、ルールを知らない人にとってはそれが見えないのだ。
 先輩は適当に石を置く。
 ……ここに置くと、だいたいこの辺が地。ここにも置くとこの辺全部。まあここだと相手が入り込んできて地が確定するわけじゃないかな……。
 すごく分からない。

囲碁において地(じ)とは、白黒双方の対局者が自分の生きた石だけで囲い込んだ空間のことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0_(%E5%9B%B2%E7%A2%81)

 これについては、模擬戦をやるうちに分かってきた。
 基本的に、先に一つでも石が置いてあると、囲い合いになった時有利なのである。相手が囲おうとしてきたら、すでにある石と打つ石を縦横で繋げておけば、囲い終わるまでに多くの石を費やす必要があったり、囲いきれなくなったりする。逆に、すでにある自分の石の横に相手が置いてきたら、自分の石を利用して囲いに行ける。
 これらを考えると、すでに自分の石で「囲いのようなもの」ができていれば、そこに相手は置きに行けない。すぐ石が取られる。
 そうするとどんどん、牽制合戦になる。
 自分の石を囲われにくくなるよう繋げ、相手の石を囲いやすくするよう分断する。そうすると囲碁でよく見る終盤のようなきっちり囲いのできた状態になる。
 で、得られた領地が、地と。


 模擬戦をやると、中盤の悪手は徐々に理解できるようになる。ここに置くと取られる。この感覚は将棋の駒の効きに近いのかもしれない。逆に言うと、「ここに置くと取られる、じゃあここに置こう」「ここの石が囲われそうになっているからここに置いて助けよう」といった考えが簡単な「読み」になる。
 それさえ繰り返していけば、なんとなくそれぞれの領地というのが盤となって表れてくるようになるのだ。
 ちょっと楽しくなってきた。


 三つ目。今のに関連しつつも、話が戻ってしまう。
「じゃあ中央からとっていけばいいのでは?」
 わざとこんな質問をした。理由がある。
「たとえば九路盤だと、置ける場所は八十一カ所。一手ずつ置いていくわけですから、自分と相手で半々くらいになります。端から詰めていくとすると、勝負が決まるのは中央をとったかどうかになるのではないですか?」
 当然、石を取ったり取られたりはある。しかし、牽制合戦である以上、お互いに領地を取り合ったら、最後の一目がカギになるのではないだろうか、という自分の考え。一応頭の中にあるのは41目対40目みたいな図である。囲いの手数はパスがない以上ほとんど同じだから計算に入れなくてもよい。
 ところがやはり、そうはいかない。先輩は首を振る。
 先述の通り、中央はすぐに制圧するのが難しい。かといって中央を囲うようにすると、相手に周囲の地を確保される。
 先輩が見せてくれたのは額縁のような図だ。外が白で、中が黒。中地と呼ばれるもの。内側だけをとっても、意外と地の数は大きくならない。
 なるほどなあ。端や辺を確保しつつ中央の牽制合戦に勝てば勝利へ近づく、と。
 ただやはり、九路盤くらいでは中央も十分有効らしい。大きい盤だと違うのだろう。それこそどうぶつしょうぎと将棋の駒の効き具合の差のように。


 あとはレクチャーされつつ模擬戦。
 ハンデとして置き石置き石が星に置かれる理由もここまでくると分かってきた。
 上級者と打って、悪手が「プレイによって」咎められることは理解につながる。子供の頃、将棋で父に嫌というほど飛車を取られた。対戦テレビゲームでも、安易な攻撃は反撃を食らう。
 やっと、置いてはダメというのが分かってきた。


 石を生かすことについても教わった。
 ルール関連は読んでいたので「二眼」については知ってはいたものの、よく分からなかった。
 「自殺手は打ってはならない」「その一手で石を取れる時のみ着手禁止点に打ってもよい」の二つのルールによって成り立っている、と分かった時、これを理解した。生かすためにはルールを利用して自殺手になる場所を二カ所以上作ればいい、というわけだ。ただすごく難しい。セキとかナカデとかも意識できていないし。


 ここまでやると、ダメ埋めに関しても簡単に理解できる。
 例え終盤でも、取られうるところをしっかりしておかないと、咎められる。まるで停戦協定のような終盤処理。


 最後の質問。
「先手ってそんなに有利なんですか?」
 コミについてだ。先手有利による6目半(十九路盤)のハンディキャップ。
 今までの話と模擬戦で、先に石を置くことの有利については分かった。ただそれが6.5ポイントの差になるとは思えなかったのだ。
 まあ、こればかりは、やっているうちに分かるのだろう。
 「有利だよー」と先輩に見せてもらった序盤順から見ても、なんとなくしか分からなかった。なにかもっとイメージしやすい場面があるといいのだけれど。

                  • -

 こんな感じの講座だった。
 今もハンデをもらいつつ何回か対戦中。何十もの石が死んだときのショックと知識不足痛感っぷりがどうにもならない。
 ただ、講座では疑問の解決に徹したことにより、把握が早かったように思う。ルール記憶からだとまた違ったのだろう。
 せっかくだしこのまま初級者レベルくらいまでは覚えていきたいなあ。

限定するもの

 ぼんやり考え事。

 自分の意志で限られたもののみに潜っていくのと、周りの反応で何時の間にか限られたもののみに潜ってしまっているのと、周りの強制で限られたもののみに潜らなければいけなくなったのと。

 それらの結果を外から見る分には、何も変わらない。
 限られたもののみに潜っていったという事実は変わらない。

 ただ。

 限られたもののみに潜っていく様子を、「曲げた」と認識する人がいる。
 限られたもののみに潜っていくのを、歓迎する人もいる。

 そして本人は逆だ。
 限られたもののみに潜っていく理由。
 意志がある場合。
 無意識の場合。
 原因がある場合。

 そういったことは本人による発言で表に出る。
 周りの人からは推察しかできない。

 ただそういった、それぞれの理由の齟齬が、隔離を誘発する場合はありそうな気がする。本人ですら推察に過ぎない状態もある。周りの人が決めつける場合もある。
 それを見ずに理由を投げつけるのは、それこそ齟齬の元のような、そんなような。

卒業式へのあるはずのない憂い

 twitterで適当に喋っていたこと関連。
 卒業式が琴線に触れることがある。よくある。
 かといって、今までの卒業式にあまり具体的エピソードはない。

 そんなものだろう、と勝手に思っている。
 卒業式を迎えた人全員が全員、ドラマティックな出来事でそのイベントを終わる、なんてことはない。
 まっすぐ帰る人だって卒業式は卒業式だし、行かない人だって卒業式は卒業式だし、風邪を引いた人だって卒業式は卒業式。
 私だって一番覚えているのが、部活の友人のあまりの緊張による手足一緒の行進→皆が小声で注意→気づいて直したと思ったらこんがらがって手足一緒の行進でみな笑いをこらえる、というのくらいだ。

 卒業式で戸棚の鍵を渡されたかった。
 卒業式のあと文芸部室で手紙を見つけたかった。
 ぱっと思いつくとこういうのだけれど、「ほんとうに?」と訊かれると「別に」と思う。

 巻き込まれたいというより巻き込まれているのを見たいというのはある。
 そして、巻き込まれているのを見たいというより巻き込まれているのを想像したいというのがある。
 こんなことを考えると、自分の中で琴線に触れる卒業式というのは、想像で思い切りドラマティックにした卒業式なのかもしれない。実際に体験することなんてないだろうと、自分自身で知っている。

2012年に聴いたVOCALOID曲メモ

 2012年のなんとか十選エントリとかおすすめエントリとか書いてみたかったもののすっかり忘れていて、まあ書くものは特にないかなと思いつつ、せっかくなので2012年に聴いたVOCALOID曲でも列挙。その年公開曲だけ。だいたい公開日順。少し重いので追記からどうぞ。

続きを読む

家出の思い出の初出

 家出の経験について友人と語り合ったことがある。小学生の時かな。
 それこそ幼稚園くらいからの付き合いである、地区の同級生。AとBと私。タイプは全く違っていて、それこそどうして一緒に遊んでいたのかというくらいの微妙なバランスだった。周りに他の遊び相手がいなかったというのが主な理由ではあるものの、あのトリオは今でも不思議である。今でも会えば話す。ただもう数年は会っておらず、三人集まるときはおそらくもうない。あとで詳しく書くときがあるかもしれない。

 三人で家出、ということはなかった。様々なことはやったものの、家出の経験はなかった。野良猫を捕まえるべく専用の箱閉じ込め装置を作ったり、山奥の綺麗な沢に秘密基地を作ったり、遊ぶ地域はかなり広かったけれど、必ず家には帰っていた、
 泊まったこともほとんどないなあ、と私が言うと、一通り盛り上がる。毎日毎日遊んだのに、お互いの家に泊まったことはまずない。というのも、AとBの家は歩いて三十秒しか離れていない。私の家とも五分くらいだ。「いつでも行ける」という近さと、「毎日学校で会う」という状況が原因だろう。幼稚園、小学校、中学校と同じ。宿泊とはまた違う場所に、私たちの付き合いはあった。

 なら家出はあったか。
 私はない。せいぜいが部屋や物置に隠れるといったもの。おとなしさを具現化した存在とまで言われた。両親にも「暇ならAやBのところに遊びに行けばいいのに」なんて勧められるくらい。
 一人で、というのは、誰もないらしい。
 ところが、AとBは二人で親から逃げたことがある、とのこと。Aが言うと、あったあったとBが笑う。
 両方の親に悪戯がばれて怒られ、散々逃げ回った挙句、回り道して自分の家の農具置場に隠れた。夜が更け、不安が空気を満たしたその時に、自分たちを探す親の声が聞こえ、プチ家出は終わったとのこと。
 どうしてこれほど私がしっかり覚えているのかといえば、彼が文集にそれを書いたからだ。

 小学校の時分では、家出の場所はかなり限られていた。
 なにせ町を出るのにも車以外では厳しかった。バスは一日数本限定に加え乗車賃が当時は高かった。駅も宿もない。自転車が一番有用だったが、逃げる場所はすぐには思いつかない。
 ただ、覚えていないだけで、けんかして家を飛び出す経験は何度もあったのだと思う。
 家出において手段はそれほど主題にはならず、逃げる経験と勇気がそういったものを支えていたのでは、と思う。
 Aは今南のほうで働いている。Bは地元のほうで、週に一度くらいは帰ってくるらしい。
 私自身、独り暮らししている今、家出の感覚なんて、もうなくなっている。