諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

鬼の伝承と子どもの危険認知

「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな」(そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね)

 鬼の話を思い出したのでちょこちょこ書く。それと関連して子どもたちの危険回避と認知の関係も。

 なお文フリ感想はかなり長くなるのでそのうちの予定。


 鬼と土地の関係に関しては今更語る必要もないと思う。かなり研究されているだろうし、むしろ聞きたいくらい。wikipediaの鬼の項目読んでいるだけで面白いもの。鬼が島やなまはげは言うに及ばす、私が行ったことのある地名(鬼面山や鬼首)にもそういった話があるのを聞いた。
 鬼の話は地元にも伝わっていた。
 伝承、伝説の類。
 小学生の頃配られた街に関する記録の本にそれらの概要が載っていて、面白がって読んだ記憶がある。鬼が現れて大変だったけれどどこかのすごい人が退治してくれて、いろいろ祭っているのがあの場所なんだよ、とか。実際行ったことのある場所とリンクしているから、へーとなった。あ、だからあの土地にはあの漢字が入っているのか、といったような。簡単に言ってしまえば坂上田村麻呂関連。ちゃんとwikipediaにも書いてあった。

大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。
Wikipedia - 坂上田村麻呂

 いつかこのへん詳しく書いておきたいな。記憶の範囲だとまずいし、実家から資料引っ張ってきたい。
 そんなわけで、鬼の存在は身近ではないものの、地名や伝承という形では、私の周りにもかなり残っていた。


 実家の近所の家。大家族で、いつも子どもたちの遊ぶにぎやかな声が聞こえる。とはいえ、地区で同年の子供が一人二人、なんて世界だから、むしろその子たちだけでしか遊べないというものもある。私だってその一人だった。
 山、沢、田、川。それらに囲まれた土地。
 その家のひいおばあさん――まだ存命どころか元気に毎日散歩しているその人――は、子どもたちのふざけすぎた遊びに対し、時々叱りを入れる。
「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな!」
 子どもたちは聞かず、暗くなっても遊び続ける。やがてお腹が空いて、家へと戻る。
 そう、「大人が子どもを怖がらせるための言葉」として、「鬼」というのがまだ残っているのだ。普段は子供たちが近づいてはいけない「山」からそれらが降りて子どもたちをさらっていく、というストーリー。

 不要だとは思うけれど付け加えておくと、子どもたちがそれを怖がらないのは「山に鬼がいないことを知っているから」だ。これはなにもサンタクロースの不在の観点から述べているわけではなく、子どもたちが山を別の危険性からとらえていることに由来する。私だって山から鬼が降りてくると言われても苦笑しかしない。
 山にいるのはもっと目に見える直接的な危険だ。
 防災無線――地区に設置された危険情報を流すスピーカー、SIRENのイメージが一番近いあの放送器具――からは定期的に熊の出現情報が流れる。
 小学校を卒業するまでに、ヘビには五種類以上出会う。毒のないものや危険なものまで。山に登らなくとも、道路や庭に出没する。
 カモシカでさえ、最近は人里におりてくることが多くなった。理由に関してはいまさら言うまでもない。ハクビシン、タヌキ、サル。
 山に登らないのは、鬼がいるからではなく、鬼以外がいるからだ。

 一応フォローする。あまり知識はないものの。
 昔の人はそれら直接的な危険を「鬼」と表現したのかもしれない。「山から鬼が降りてくる」というのはなんともストレートな例えだ。
 生き物に限らず、自然災害も、「人里におりてくる」ことがある。
 たとえば、砂防ダム――石や砂をせき止めるために作られたダム。地元にあるのは小さいタイプ――は、「鬼の顔をしている」とされた。鬼の漢字を含んだ名前が付いているものは実際今でも地元にある。
 凹の形に、水の出口の穴二つ。
 実際見ると、その仰々しさと古びた色、自然の中の建造物という違和感に、鬼の形容が納得できる。
 そしてもう一つ、頭に浮かぶ。鬼の顔をしたダムからあふれ出す、土石流。豪雨によって起こる直接的な危険。それこそが、「山から鬼が降りてくる」例えにふさわしいのではないか、と。


 ここからは、ひとつ気をつけて書かなければいけない。
 決して「最近の子どもたちは経験が足りない」なんてことを言うつもりはない。それだけ前置きしておく。私だって若いのだからブーメランになりかねないし。

 山の危険。現在になってもそれは人の力で抑えることができない。
 私の子どもの頃、山に登って迷子になったり、帰り道に腕の太さほどのマムシがいてどうしようもなくなったりした経験はある。それがあるからこそ、山での対応、危険生物の見分けと対処に関しては知識としてあった。親から教わった。
 沢で見る岩の形と苔の危険性、触ってはいけない植物、大まかな毒のキノコの見分け、足跡や糞から見る動物生息地域の検討、腕時計での方角把握、太陽が見えない時のため年輪からの方角把握。
 知識自慢でなく、それがない時の山の怖さ。
 今でも山に入ることは少ない。山菜採りは、無理しない範囲であれば深くまで入る必要がない。それは山を荒さない遠慮の気持ちなどでは決してなく、怖いからだ。

 最近では子どもたちは山に入ることがないのだという。止められているから、と。ある種それは正しい。入らなければ大変な事態にはならない。
 だが、鬼は山からおりてくる。
 道に立てられた「マムシ注意」の立て札。川べりの足元注意。防災無線の情報。
 中学の時、ヘビを見つけた近所の子供が棒を持って近づいて行くのをあわてて止めた。
「あれたぶん毒ないよー」「見えるか、あの模様? あれマムシだぞ」
 今の子は、ヘビが水面を滑ることを知らない。

 ヘビくらいならいいのだ。あれくらい用心深い生き物ならば。人間との対峙で逃走を選択するくらいの聡明な動物ならば。
 まるで罠のように張られた危険。山、沢、田、川。それらはとても見分けにくい。私は用水路に二度落ちた。友達は沼に溺れかけた。底はよく見えないが、すり鉢状の構造になっていたことをあとから知った。
 危険を体験しろというのでは決してない。体験しないなら、それはそれでいい。
 ただ、危険を見たことがなければ、危険回避は難しそうだ。
 刺激しなければヘビは自分から逃げていくということを、私は経験で知っている。
 子どもたちは見たことがないから、気になって近づき、ちょっかいを掛ける。


 子どもたちを見ているときに浮かぶ危うさ。
 それらはもしかして、私が大きくなったからわかるようになったのだろうか。
 大人が口酸っぱく注意したあの内容が「現実」のものであると、理解したからなのだろうか。
 同じように、私も子供たちに注意する時が来るのだろう。
 そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね。
 それは単なる過保護にしか見えないだろう。子どもを馬鹿にしすぎだと言われるだろう。私自身だって子どものころから対処は自分で学んでいるのだ。
 だから多分、私は大人になったら、注意の仕方を変える。
 危険性に対する知識を、なるべく間違いのないように、子どもたちにわかるように。
 その警告は、分かりやすくあろうと思う。
 少なくとも、「鬼」なんて仮想の言葉で、彼らの危険認知をにぶらせてしまわないよう。

リズムゲームが苦手だった

 音ゲー全然できなかったけれど気になったProjectDIVAに触れてみたらエンジョイできるようになったよという話。ありていに言えばProjectDIVA勧めエントリである。
 ……ところで私は最近こうやってエントリ序盤にアブストラクトを置いておくのを意識しているわけだけれど、梗概書く練習以外にはならないんじゃないだろうか。いいか。いいのか。


 初めてリズムゲーに触れたのはいつのことだっただろう。ほとんどハード持っていなかったし、覚えていない。ゲーセンでやることも特になかった。もともと敬遠気味。音楽への興味もそれほど高くなかったというのもあるかもしれない。そうなると初めては高校の時の某ステマニとかになるのだろうか。部活のPCに入っていて先輩がよくやっていた。ためしに触れてみたもののさっぱり。焦りばかりが先行し、楽しみ方もよく分からなかった。
 某太鼓のゲームもできなかった。もともと和太鼓ができないからこんなに下手なのだ! 小学校の頃の鼓笛隊もシンパルだった私はしようがないのだ! って思うくらいに。いや合唱コンクール指揮もやったけれど、まあ別だろう。あの太鼓ゲームもハードソフト揃えたらまた変わっていたのだろうと、今は思う。


 どこか自分の中で、苦手意識を克服したいと思うときがあった。ゲームであって義務ではないのだから克服も何もないとは思うものの、あれできたら楽しいだろうな、という考えは少しばかりあったのだろう。


 で、ProjectDIVAだ。

初音ミク -Project DIVA-』(はつねミク プロジェクト ディーヴァ)は、セガより発売された音楽ゲーム音声合成ソフト「初音ミク」に設定されているバーチャルアイドルのキャラクターを起用したキャラクターゲームである。2009年7月2日[1]にプレイステーション・ポータブル専用ソフトとして発売された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF_-Project_DIVA-

 軌跡シリーズがPSPに移行したのに伴ってハードを買い、それこそ「零の軌跡」と「イースVS空の軌跡 オルタナティブサーガ」くらいしか入れるソフトがなかった頃の話。いや今でもソフトそんなにないけれど。お金なくて。
 PSStoreで体験版を開拓してみようとダウンロードしたのが「DIVA2nd体験版」だった。四曲。モジュールいくつか。当時はなんだかんだどの曲も知らなかったはず。
 さくさくできて、はまった。
 体験版だとEASY(○ボタン一個)とNORMAL(○×二個)くらいなので簡単にできるかと思いきや、そうでもない。むきになりつつ楽しめる音ゲー体験は初めてだった。
 まず、ガイドがしっかりしている、というのが大きい。ノーツの重なり・長針・ノーツ配置の幅という三つのガイドによってかなり押しやすくなっている。これで慣れると他ゲームでもノーツ配置幅で大体のタイミングがはかれるようになるだろう。画面の色んな所から飛んでくるものの、ある程度長い間画面にいてくれるので、そういった意味でもタイミングははかりやすい。
 あとはPV。選んだモジュール(衣装セット)でキャラクタが踊り歌詞もでる、となると、PV見ているだけで楽しい。「集中すれば見えなくなる」どころの話ではない。「PV見とれてミス誘発」まである。恐ろしい子! モジュールに関しては体験版でいくつか着せられるはずなので気になる方は試してみるといいかもしれない。当時の私はへーこんなことができるのかと驚いていた。

 例えば曲に馴染みがない人でも、プレイして曲と歌詞を知り、この曲良いなというようになる仕組みが素晴らしいと思った。事実私はそうやって聴く機会が増えた。
 私なんかは当初、曲が特殊なものしかないのではないか、なんて予想を持っていた節があって、むしろプレイするうちにジャンルの多彩さに驚かされた。もう今では各ジャンルすごい曲数あるわけだし。DIVA1stとかだと「Ievan Polkka」「荒野と森と魔法の歌」「ミラクルペイント」あたりは驚いた記憶。いや、本当に聴いたことがなかったのだ。
 偏見だったと言えば間違いなくその通りなのだが、むしろきっかけがなかったことがあまりに大きい。知らないのだ。そういった広がりがあることを。DIVAはそのあたり、「ゲームから曲へ入る」触媒としてよく作用しているように思う。

 上手になったか、と言うと、微妙だ。パーフェクト埋めは全然やっていないし、まだクリアできていない曲はいくつもある。2ndだと「ぽっぴっぽー」EXと「サイハテ」EXがすぐ落ちる。1stの消失と2ndの激唱は除外。あれはもう「技術的に無理」じゃなくて「物理的に無理」って感じがする。前者だと、練習するうちに少しは出来るようになったということを実感できるが、後者、すなわちその二曲は「私の指がそれを押せるようにできていない」感じがする。まあ、それは置いておいて。

 arcade版(ゲーセン)もちょこちょこ。モデリングも違うし、HOLDや同時押しなどシステム差異もあって楽しめる。ただ最近筐体少なくなったなあ。ゲーセン通信系は大変そうだ。
 DIVAf(Vita)も欲しいのだけれど、ハード購入予定はなかなか立たない。逆に言うと、ハードを持っていない人はこういった「入り方」はできないわけで、また障壁だな、とは思う。アカウント問題と近い。


 自発的、というのは大きかったな、と。
 それこそ、経験者が急に背中について席に座らされおどおどプレイし、下手さに苦笑される、なんて流れだと、まずやらなくなる。経験談。
 だからまあ、勧めるのって難しい。特に最初から「テクニック重要」なのが出がちこのジャンルはその要素をもろに受けている。他ゲーだとストーリーとかキャラクタとか見てそこから入ればいいよー、なんて話もできるけれど。
 DIVAのPVの良さもそこにある。やってるのみてると楽しい。

 あとはまあ、ガチ勢か。当然ながらガチ勢になる義務というのはゲームにおいてない。ただ未経験者が入る上でそういった姿はやる気にも障壁にもなりうる。エンジョイ勢という言葉は――蔑称として使われない限り――ハードル下げにも十分貢献しているんじゃないだろうか。
 そのあたりもそのうち他ジャンルと絡めて考えてみたいところ。


 今ではちょこちょこREFLEC BEATとかも触るようにはなってきた。
 別の音ゲーもやってみたいかな、なんて思うようになった今、やっと「苦手」って言葉はほんの少し消えたかな、なんて思う。楽しめてそれが消えていくんだから、悪くない。

イースオリジン:強さという単語が響かない話

 イースオリジンの二周目をこの頃始めている。win7版じゃないから新PCにはインストールできないと思い込み仕舞っておいたのだけれど、普通に公式ページにvista対応方法書いてあったという。簡単だった。
 アクション久しぶり感とダンジョンの懐かしさが相まって、けっこうさくさく攻略中。楽しいなあ。
 というわけで、ユニカハード二周目が終わった感想。
 作中で繰り返される「強さ」という単語がストーリーを支えている分、その「強さ」がぼやけているのでよく分からなくなっているよ、なんてお話。
 ちょっとばかりネタバレ注意。ぼかしながらもボス戦前のことが書いてある。


 感想。一周目はユーゴ→ユニカだったから、むしろ、ストーリーのひねりばかりを意識していた。そう考えると、ユニカからやった時、展開のストレートさは映える。
 進むことのシンプルさが、塔登りの退屈さをなくす。
 徐々にレベルが上がり、困難をクリア。そうすることで、見習い状態から周りに認められ、力を借り、進んでいく。
 ラストの選択とともに、それはとても分かりやすい。


 しかしながら、このゲームをやっている時の「冷たさ」は抜けない。すごく淡々と進む。他キャラルートでも同じ。会話の飛ばし方・全貌の見えなさだけでないものがある気がする、と思い、少し考えてみた。


 知らない方のためにちょっと解説。
 イースオリジンでは、いなくなった女神たちを探すべく、プレイヤーキャラクタたち捜索隊を結成し地上に降りる。そびえ立つ塔に女神たちがいることを知って登り始めるが、そこは敵と魔物たちが住む魔窟だった。女神たちはどうして姿を消したのか? 敵の思惑とは? 主人公たちは自分の目的を果たせるのか? といった感じ。
 プレイヤーキャラクタ、ユニカ=トバについてはこちら。公式サイトより。

主人公の一人。
神官トバの家系に生まれた天真爛漫な少女。幼少の頃からサルモン神殿の女神宮に忍び込み、そのつど女神たちから妹のように可愛がられていた。神官の家系に生まれながら魔法の使えない落ちこぼれだが、あえて神殿騎士に志願し、女神の捜索隊にも強引に参加した。
http://www.falcom.co.jp/yso/character.html

 見習い騎士だった彼女は、女神たちを追ううちに成長し、周りの力を借りて、困難を打ち破っていく。
 本作では複数のプレイヤーキャラクタがいて、それぞれに背景・目的・展開・コンセプトなどが異なる。
 例えば、ユニカでいうと、「魔法が使えない、しかし」というのがある。
 その言葉は作中いつでも暗示される。
 わたしは魔法が使えない、しかし女神たちを助けたい。
 彼女は魔法を使えない、しかし違う強さを持っている。
 彼女に対し立ちはだかるのは、当然、魔法の力だ。魔法具がないと通れない陣、魔法によって通れない場所、強大な敵の魔法に為す術のない状態。
 それらを攻略によって、あるいは周りの力を借り、打ち破っていく。強大な魔法を持つ敵も倒す。


 ……なのに、プレイしていて消化不良感が抜けない。
 最初は、「敵を倒しきれない」ところにあるのだと思っていた。HP削りきって「次は許さない」みたいなことを敵が言って転送魔法で消える。いくつかそういう戦いがあって、こうなるとユニカの頑張っている印象が遠く感じるのだ。ましてやこちらは魔法のない身。敵は言いたいことだけ言って戦わず去って行ったりもする。
 同じ会社のゲームである零・碧の軌跡でも表面化したこの感覚は予想以上に大きいのかな、と。壁を打ち破る一巻での敵を倒すというの流れなのに、敵はまだ余裕を持ったように立ち去っていく。
 しかしながらこのゲームは零・碧の軌跡と違う。イースオリジンでは、敵は最後に倒せる。一度目では倒せなくても、決戦の場は用意されている。
 ならば、やるせない感覚はここから来てはいないのだろうか。


 考え直すと、「魔法」の強大さが引っかかりになっているようだ。
 今作における魔法は強い。
 あまりにも。
 それはキャラクタからも伺える。捜索隊にも魔法使い勢が幾人もいるし、闇の軍勢はほとんど魔法を使える。


 例えば、転位魔法をあげよう。
 敵が現れるとき、消えるときによく使う。未プレイの方はポケモンの「そらをとぶ」だとか「テレポート」を想像してもらえるといいかもしれない。あと少しで倒せそうな時も、大事なものを奪われた時も、それで逃げられてしまう。
 ユニカはそれを使えない。
 せいぜいが捜索隊として渡されたクリスタル(地図)を用いて既知の場所(セーブポイント)に転位するくらい。いくら強くなってもその差は埋まらない。究極的なことを言うと、闇の軍勢が女神たちをさらい転位魔法を使って塔の色んな場所に逃げ回られたら捕まえようがないのである。
 塔を登り、困難を排除し、女神たちを探すというコンセプトからすると、魔法はとても遠く見える。

 ここで注釈を入れておくと、魔法の強さは世界観からの要請ということだ。黒真珠の話だとかシリーズ通しての設定だとかからするとそれは当然のことである。
 そういう意味でユニカが「魔法を使えない」ということは一つのポイントとして理解できる。
 魔法を使えないプレイヤーキャラクタ。だが「魔法を使えない、しかし」という文言が彼女を塔に登らせる。
 魔法以外の力によって、ついに敵へと肉薄する。その流れまでは分かりやすい。


 しかし、そこからだ。
 ラスボス戦前。
 彼女は強大な魔法の力に押しつぶされかける。
 そして、強大な魔法の力によってそこから難を逃れ、道が開かれる。
 ここがつらい。
 成長を見てきたプレイヤーにとって、その力があまりに強大すぎて、結局駄目なのだと思ってしまう。「敵を倒せる者」は自分ではない。
 そこから助けられても、「助かった要因」は自分ではない。ありていに言えば蚊帳の外なのに、ラスボスに挑むのはユニカだ。とてもやるせない。
 そこからのラスボス戦。もはやなぜユニカが戦っているのか分からない。ましてや魔法能力の権化のようなラスボスをどうして倒せたのかも、プレイしていて理解ができなくなる。
 このあたりが消化不良の要因なのではないか、と。
 魔法を使えない、しかし別の力でそこまであがってきた。ところが作中で戦うその場所に、ユニカはいても、ユニカの力はほとんどない。


 「魔法を使えない、しかし」、というユニカストーリーのコンセプトをしっかり貫いてほしかった、とは言えない。まわりの魔法の力によってユニカが助かった場面も多々あるからだ。別ストーリーから言っても、魔法の強大さの要請は必須だろう。
 ただ、どうにも空しいのだ。見方によっては、ユニカじゃなくて他の人が戦えばもっと簡単な結末になったのではないか、と思ってしまう。
 ユニカの、他の人の力を借りる場面はおそらく最後まで必要だったのだろう。しかしながら、あまりにその力が彼女にとって届かない位置にあり、そして簡易に魔法が行使されているように描写されている以上、その空しさは消えない。


 ここまで書いてから、読み返して首をひねる。
 言うのが難しい。
 ユニカにしかない能力で倒してほしかったかというとそうでもない。魔法が出てきて欲しくなかったかというとそうでもない。ヒロインなんだから届いてほしいなんてストーリー約束を語るつもりもない。
 ただ、感情的に描かれている終盤なのに、冷めていくように見える。
 それはなにより、魔法行使が簡易で強大すぎて、作中で語られる「強さを持つ」だったり「ユニカの強さ」だったりとそういったものが、あまりに適当に語られすぎているからだろう。サブキャラクタの言葉があまりに空しい。強さという言葉は、ユニカへの慰めに使われる単語ではない。
 頑張っていて、魔法以外の力を得て、周りの力を借りて、切り開いていったはずのユニカが、ボス戦になると道化に映る。これがあまりにも悲しく、淡々と進むストーリーだと感じてしまうのだ。

小説草稿完了から精読までの間に軽く校正することリスト

 物語原稿書き終わって、すぐ赤入れ、となると、「内容に関する赤入れ」と「文章に関する赤入れ」がごっちゃになる、ということがよくある。どちらも重要であることは間違いない。ただその読み返す時の意識は二つを分けるだけで変わり、見逃しが少なくなる、と思う。
 というわけで、一からしっかり読み返すその前に、単純な部分を一度見て直しておく。いわば一次修正。
 これはそんな確かめるべきことリスト。
 ただ当然、リスト中の「統一」に関しては例外となる破戒テクニックもあるため、まずは統一を意識しつつの破戒、みたいなことを意識して置いていることに注意。そういうわけでその三はやや設定や人に依存。
 あと配置/組版は、センテンス/パラグラフくらいの領域差異によるもの。分けなくてもよかったかな。

 毎回こんなリストを作ってはどこかに無くしたりするので、せっかくなのでここに保存しておく。随時追記予定。


確かめること

○その一:文に関すること
・誤字脱字修正
・鍵括弧、括弧内括弧の統一
・漢数字の統一(例外あり)
・句読点修正
・漢字と平仮名の重複取り(例外あり)
・感嘆符疑問符後のスペース統一
・名前および固有名詞に振りがな

○その二:配置に関すること
・行頭開けもしくは全角空スペースの統一
・フォントの統一
・カーニングの注意
・章記号と位置の統一
・「――」の統一、詰め(ワードアート、もしくはフォント→文字間隔→狭く・0.9ptなどいろんな方法あり)
・ぶら下げの注意(「……」後に行変わり、行変わり後のぁぃぅぇぉゃゅょっをどう扱うかなど)
・空行数の統一

○その三:統一に関すること
・人称の意識(人称表を作る・人称変化を記録しておくなど)
・改行の意識
・行中の鍵括弧の統一
・引用台詞行頭下げの統一
・「……」前後の読点の意識
・列挙の意識(aやb、c)
・「けど」「けれど」「ものの」の意識
・「しかし」「だが」「けど」の意識
・「〜から」「〜たり」「〜や」「〜と」「〜および」の意識
・「、と」「と、」の意識
・助詞過剰重複避け

○その四:組版に関すること
・余白、ヘッダーフッターの確認
・文字数や行数、行間字間の注意
・セクションの注意
・章タイトル位置の確認
・二段組みの適用注意(wordなどはたまに上下文章がふり分けられているときあり)
・インデントの適用注意
・右寄せ等の確認
・ページ数の確認
・目次とページ数の一致
・パンくず内容、位置の統一

※その他
 単語入れ替え、主語の肥大、修飾語位置の調整などに関しては別にくくろうと思ったものの、省略。
 理由としては、それらを言語化しようとしたらすでにそういった記事が見つかったから。下記サイト記事に従い読み返すと、ルールに則り完璧に見直すことができるので個人的にとてもおすすめ。

> 驚くほど違う→あなたの文章を最適化するたった4つのルール - 読書猿Classic: between / beyond readers
> http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-562.html

氷にならない世界

  • そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故?(谷川流 / 涼宮ハルヒの憂鬱)
  • 僕はいかにも自分が主人公であるような気分で生きているけれど、よく考えてみれば、他人の人生の中では脇役に過ぎない。そんなことに、今さらながらに気がついた。河崎たちの物語に、僕は途中参加しているのかもしれない。(伊坂幸太郎 / アヒルと鴨のコインロッカー)

 自分以外の膨大な数の人生。
 それを肌で感じた時、逃げ出したくなる。動揺する。

 よくあること、で済みますか?

 イベントで集まった人混みを見た時。高い塔から街並みを見下ろした時。長蛇の列にうんざりした時。たくさんの手紙がそれぞれの場所へ送られるのを実感した時。歴史表に並ぶ長い長い時間と出来事の群れを読んだ時。自分の体験したことのない世界を、見せつけられた時。
 他人は他人、自分は自分でその気持ちを抑えつけられないほど、「自分以外」のあまりの多様さを痛感する。

 よくあること、で済みますか?

 知らない時間、知らない星、知らない国、知らない土地、知らない家族、知らない繋がり、知らない人。
 いつもそれにさらされている。知らないことを知る機会はいつだってある。知らないということを知る機会もいつだってある。
 時間も、世界も、人も、止まってはくれない。知らないことを知りきる機会だけがない。

 そして、それらが止まってくる瞬間を知った時、もう一度、身震いする。

遊びの称号ランクに関する失敗例

 昨日のボードゲーム日記に関連した昔の話。
 小学校の時も当然いろんな遊びが流行った。雨の日はインドアな遊びが多め。さすがにトレーディングカードゲームは禁止だったものの、トランプやUNO、将棋なんてのも一時期。定規はじきとか鉛筆サイコロとか、牛乳瓶のふたを重ねて転がしたりと身近なものを使ったのも多数あった。飽きが早いお年頃。通り過ぎて行ったゲームの数は数えきれない。
 その中で手だけを使う遊びもいくつかあった。
 えっと、ほら、あの親指出して、全体の数当てたら勝ちという、あれ。
 ちゃんとwikipediaがあったので貼っておく。私の地域では「いっせーのーせ」。
手を用いた遊び - 数字を指定する遊び - Wikipedia
 単純なゲームルール自体はもともとあった。
 ある時、一時期これに階級制を付けるのが流行った。
 ランクはアルファベット順。皆最初はLランクからスタートし、このゲームで勝ったら一ランク上がり、負けたら一ランク下がる。そんな感じで強さを競った。たいてい一対一。それ以外だとランクの変動がつけにくいのだ。
 数日のうちにその遊びはクラス内で白熱しだし、男子女子問わずランク持ちが増えた。規定もどんどん変わった。Aランクの上まで行くと、S(Specialの方)ランクやSSランクまで増やして対応するとか、不正したらZランクまで下がるとか。今考えるとアルファベットSランクとSpecialランクはどうやって区別していたのだろう。確かSpecialまで行くとランクが下がりにくくなる設定もあった。
 ただ、長くは持たなかった。
 問題としては、ランクに差がある人との対戦に関して。上ランクの人はあまり戦うメリットはない上に、ランク差があると「下ランクの人が買ったら上ランクの人の称号をもらえる」なんて特別ルールができ、新しく遊びに入った人がいつの間にかS、なんてことになった。ちなみに私もそれ。
 上ランクの人はこのルールのせいであまり戦わなくなり、新規の人も申し訳なくなって嫌になった。勝敗によるランク上下もどんどん特別ルールができたせいで訳が分からなくなり、いつの間にかその遊びは廃れていった。

 今やったら、当然ながらルール設定はしっかりするんだと思う。この事例だと、「勝ったら一ランク上がり、負けたら一ランク下がる」を守っているだけでもっとこの遊びは持ったのではないだろうか。
 そういう遊びが好きだとルール設定も好きで、どんどん設定したがるようになる。それが性、とまで言ってしまうと違うけれど、ローカルゲームである以上ルールはどんどん変化する。ああいった急速な構築と崩壊はあまりにドラマティックで、記憶に残っていた。
 結局名前のつかなかったあのゲームを思い出し、あの頃を何人が覚えているのか想像にふける。

麻雀初心者に教える時のネックメモ

 小学校から高校までは麻雀を教わっていたが、高校からは教えることが多くなってきた。
 教えた人で私以上にはまった人は何人かいるし、彼らはおそらく私より勝率を保てる。勝利の適性について興味があるわけではないものの、どう教えるかについては悩むところである。
 その手の本はいくつも読んでみたし、今ではそういうサイトも多い。麻雀ゲームではナビゲーション機能すらある。ただあまり決定打というものはない。……ないかなー、決定版。この本だけ読んでおけばできる! みたいなの。
 口頭で教えようにも環境などの問題はあるが、とりあえずは「麻雀をやったことがない人が初めて座った時」や「やり方の概要だけ知っている時」によく引っかかる例についてメモっておきたいと思い、書き出してみた。たぶんもっともっとあるけれど、要点だけ。ちょっと特殊な書き方をしているので、経験者には違和感があるかも。

  • 牌の認識

 やったことのない人にとっては、かなりの枚数の牌をかきまぜたり並べたり倒したりするゲームという認識はあるものの、その構成については理解していないことがある。自称初級者の人が「これって全部4枚ずつなんですか!」などという例に遭遇したこともあるから。
 「牌の全体枚数と各枚数」「主な種類」「マークと数の認識」あたりがネックか。
 これらは教えることが楽で、しかも覚えてしまえば頭から離れることはないので、きちんと覚えてもらうことを意識すべきかもしれない。教える側としては当たり前すぎてむしろ抜かしてしまいがちだからだ。
 呼び方は後でもよいだろうというのは友人との共通認識。私の父が発する「チャッソー」は私自身しばらく認識できなかった。数字とマークさえしっかり把握できたら。
 あとはまあ、ドラ順番か。東南西北、白發中、九と一。これはドラの時に説明するくらいなのでそれほど重要視しなくてもいいのかもしれない。ただ当然「東南西北でそろったらなにかないの!」とか「これってオールマイティ!」などについてはケアしないといけない。

  • すでにある麻雀見学情報

 かなりの枚数の牌をかきまぜたり並べたり倒したりするゲーム、という認識が残っているおかげで、初心者の話が急に飛ぶことはある。それは教える上でいいことではあるものの、そこでの誤認が、テストプレイでのミスとして散見されることは多々あった。
 例として、牌の積み、手牌の並べ、ツモり方などは、むしろ外から見ていた認識があるために初心者でも難なくこなすことは多い。
 というわけで、ここでサポートすべきは細かい部分。教え方としてはテストプレイが妥当かもしれない。初心者本でもしっかり書いてくれるところはある。多牌少牌なんかは初心者にいくらでもあることだし、ゆっくり教えていくべきだろう。
 そして、それとは逆に、知識が邪魔をして引っかかりが大きいことがある。
 例は発声、あがり方などに関して。初めて牌を触った方三人とやった時、思った以上にツモとロンの違いを教えるのに苦労した。自分と相手という認識だけでは足りなくて、「あと1牌が出た時に」というのはあまり他のゲームにない特徴なので教え方が難しい。
 発声に関しては知識の範囲ではある。覚えれば染みこむし、麻雀ゲームがあればすぐ慣れるだろう。初代GBの役満のように、鳴くときにしっかりポンチーカンロンナガレを選択しないといけない、なんてハードルの高さは現代にはない。
 ただ、このゲームは「発声しないといけない」という誤認がある場合がある。よく言われる「初心者は鳴きたがる」というものには、「鳴いた時のゲームルール上のメリットデメリット認識の欠如」「早く一定形式に揃えたい感情」に加え、この誤認が引っかかっているような印象がある。

  • 一翻縛り

 長く書いちゃったな……やっとこれ。
 これは初心者とのテストプレイではよくあること。俗にいう「役なし」。
 訊いてみるとこれには原因がいくつかあるようで、単純な「役を知らない」だけではなく、「一定の形式に揃える」+「役を一つ以上つける」ことを認知していない状態であるとか、「役と点数を結び付けられず、なぜ役を付けられたら点数をもらえるのか、役や翻数によってどうして点数が変わるのか」ということを教えてもらえない状態だとか、様々。あとは「鳴いた時の役有効無効下降、もしくは状況による役に関する知識」も入れないと、牌を倒した時に役がない状態になる、なんてことも。
 これは大きなネックその1。正直、思い浮かんだ役でしっかりあがれるようになれば初級者を名乗っても構わないだろうと個人的には思っているし、ここさえまず抜け出せば、と思う。このハードルを越えると役の完全知識がなくてもゲームになるからだ。
 ここの教え方の決定版をまだ私は知らない。
 役がないと点をもらえないのとか、役の複合で点数が上がることとかは、ポーカーあたりを喩えに使えばいいのだろうけれど、ポーカーを知らない人も当然いる。
 「一定の形式に揃える+役を一つ以上つける」ことに関しては徹底的に教えてあげるのが一番なのかな、とも思いつつ、そうすると「リーチ」で意外と引っかかることが多い。そうすると役になる、というのは説明しにくいのだ。
 「役と点数を結び付けられない」に関しては、当然得点計算式が答えではあるものの、それは初心者には重い。軽く見せるくらいがいいのかもしれない。符計算はまだまだ遠いだろうし。
 偶然役について教えるのもなかなか。先に教えてしまうとそれ狙いばかり、なんてのはよくあることだ。
 七対子から教えるのは私も冗談でやったものの、あれは牌構成が例外であるため、あまり万能さを打ち出すとそこからの脱却が難しい。ある先輩は、七対子から教えたら白發中をわざわざ対子に揃えなおしてあがった例を見たという。
 「鳴いた時の役有効無効下降」は、これは良いとこの間褒められた。役一覧に書いてあげるだけ。「鳴いてもOK」「鳴いたら無効」「鳴いたら点数下がる」。そうすると知識の一部になるからとても楽とのこと。麻雀用品についている役一覧は簡易版であるため、こういう点を省いていることが多い。本だとしっかり役紹介ページに書いてあるものの、ずらっと役を並べたページには書いてなかったり、なんてことも。

  • 待ち方

 先述した「あと1牌」とか、その辺。待ちの形まで教えると初級編になるけれど。
 これはあがり方につながるということで、抜かすわけにもいかない。
 他をそろえてあと1牌で特定形式になる状態、すなわち「テンパイ」に関する知識なのでその辺のワードと絡めて教えるべきか。

 考え中。これも教えにくいよねー。「ある特定の形式」。これさえすればリーチかけられるよ、という教え方だとこり固まって点数が上がらないし。例外に関しては例外ときちんと教える。

  • 役の知識

 もう疲れた! なんでこんなに文章長くなるんだ!
 大きなハードルその2。
 もうこれは記憶、と言っちゃう経験者はかなりの数みてきた。それはそうなのだけれど、初心者はそう言われると離れてしまうことがあるので意外とそれは荒い。それはそうなのだけれど(二回目)
 かといって教えるのも……。出現頻度でソートして、まずは主要な役から、が妥当かと思い、この間ホワイトボードに書きだしたものの、当然ながら手を作るのが第二ネック。結びつきにくい。工具の知識だけ押し込まれても用法を知り体験できないと作業が覚束ない、というわけだ。
 こういうのはゲームや漫画本、なんて意見もあった。あとは他の人の見学なんて意見も。経験者があがった時に一つ一つ説明してあげるだけでも十分な効果はある。

  • フリテン

 麻雀におけるルール特徴。
 教える上では「自捨牌フリテン」「同順フリテン」「リーチフリテン」に分けないと引っかかるっぽい?
 ただ「捨てた牌ではあがれないんだよ」と教えるだけだと後々に影響が。

  • ドラ

 表示牌の次。それ自体は役にならない。などなど。意外とこれは「ボーナス点」の一言で何とかなりそう。赤ドラとかもその都度教えれば。

  • 点数計算

 ハードルその3。ここまでくると初級者脱却篇に入るのであまり詳しくは書かず。
 初心者にはどのへんくらいまで教えるのがいいんだろうか。「役が多いと点数が上がる」とかか。あ、あと基本的な、「25000ずつみんなで持って、そこから取り合ったりする」なんてところは説明で抜かしがち。
 父親からは、六本でマンガン、八本でハネマン……を小学校の頃教わった。これから入るのはいいかもしれない。明快。得点も1.5倍、2倍……だからそんなに複雑ではない。それ以下の点数は経験者に数えてもらう、というフォローを加えておけば十分。
 親のメリットデメリット、ツモロンの払い方なんかはここと絡めて。


……終わり。長くなって疲れた。