諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

限定するもの

 ぼんやり考え事。

 自分の意志で限られたもののみに潜っていくのと、周りの反応で何時の間にか限られたもののみに潜ってしまっているのと、周りの強制で限られたもののみに潜らなければいけなくなったのと。

 それらの結果を外から見る分には、何も変わらない。
 限られたもののみに潜っていったという事実は変わらない。

 ただ。

 限られたもののみに潜っていく様子を、「曲げた」と認識する人がいる。
 限られたもののみに潜っていくのを、歓迎する人もいる。

 そして本人は逆だ。
 限られたもののみに潜っていく理由。
 意志がある場合。
 無意識の場合。
 原因がある場合。

 そういったことは本人による発言で表に出る。
 周りの人からは推察しかできない。

 ただそういった、それぞれの理由の齟齬が、隔離を誘発する場合はありそうな気がする。本人ですら推察に過ぎない状態もある。周りの人が決めつける場合もある。
 それを見ずに理由を投げつけるのは、それこそ齟齬の元のような、そんなような。

卒業式へのあるはずのない憂い

 twitterで適当に喋っていたこと関連。
 卒業式が琴線に触れることがある。よくある。
 かといって、今までの卒業式にあまり具体的エピソードはない。

 そんなものだろう、と勝手に思っている。
 卒業式を迎えた人全員が全員、ドラマティックな出来事でそのイベントを終わる、なんてことはない。
 まっすぐ帰る人だって卒業式は卒業式だし、行かない人だって卒業式は卒業式だし、風邪を引いた人だって卒業式は卒業式。
 私だって一番覚えているのが、部活の友人のあまりの緊張による手足一緒の行進→皆が小声で注意→気づいて直したと思ったらこんがらがって手足一緒の行進でみな笑いをこらえる、というのくらいだ。

 卒業式で戸棚の鍵を渡されたかった。
 卒業式のあと文芸部室で手紙を見つけたかった。
 ぱっと思いつくとこういうのだけれど、「ほんとうに?」と訊かれると「別に」と思う。

 巻き込まれたいというより巻き込まれているのを見たいというのはある。
 そして、巻き込まれているのを見たいというより巻き込まれているのを想像したいというのがある。
 こんなことを考えると、自分の中で琴線に触れる卒業式というのは、想像で思い切りドラマティックにした卒業式なのかもしれない。実際に体験することなんてないだろうと、自分自身で知っている。

2012年に聴いたVOCALOID曲メモ

 2012年のなんとか十選エントリとかおすすめエントリとか書いてみたかったもののすっかり忘れていて、まあ書くものは特にないかなと思いつつ、せっかくなので2012年に聴いたVOCALOID曲でも列挙。その年公開曲だけ。だいたい公開日順。少し重いので追記からどうぞ。

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家出の思い出の初出

 家出の経験について友人と語り合ったことがある。小学生の時かな。
 それこそ幼稚園くらいからの付き合いである、地区の同級生。AとBと私。タイプは全く違っていて、それこそどうして一緒に遊んでいたのかというくらいの微妙なバランスだった。周りに他の遊び相手がいなかったというのが主な理由ではあるものの、あのトリオは今でも不思議である。今でも会えば話す。ただもう数年は会っておらず、三人集まるときはおそらくもうない。あとで詳しく書くときがあるかもしれない。

 三人で家出、ということはなかった。様々なことはやったものの、家出の経験はなかった。野良猫を捕まえるべく専用の箱閉じ込め装置を作ったり、山奥の綺麗な沢に秘密基地を作ったり、遊ぶ地域はかなり広かったけれど、必ず家には帰っていた、
 泊まったこともほとんどないなあ、と私が言うと、一通り盛り上がる。毎日毎日遊んだのに、お互いの家に泊まったことはまずない。というのも、AとBの家は歩いて三十秒しか離れていない。私の家とも五分くらいだ。「いつでも行ける」という近さと、「毎日学校で会う」という状況が原因だろう。幼稚園、小学校、中学校と同じ。宿泊とはまた違う場所に、私たちの付き合いはあった。

 なら家出はあったか。
 私はない。せいぜいが部屋や物置に隠れるといったもの。おとなしさを具現化した存在とまで言われた。両親にも「暇ならAやBのところに遊びに行けばいいのに」なんて勧められるくらい。
 一人で、というのは、誰もないらしい。
 ところが、AとBは二人で親から逃げたことがある、とのこと。Aが言うと、あったあったとBが笑う。
 両方の親に悪戯がばれて怒られ、散々逃げ回った挙句、回り道して自分の家の農具置場に隠れた。夜が更け、不安が空気を満たしたその時に、自分たちを探す親の声が聞こえ、プチ家出は終わったとのこと。
 どうしてこれほど私がしっかり覚えているのかといえば、彼が文集にそれを書いたからだ。

 小学校の時分では、家出の場所はかなり限られていた。
 なにせ町を出るのにも車以外では厳しかった。バスは一日数本限定に加え乗車賃が当時は高かった。駅も宿もない。自転車が一番有用だったが、逃げる場所はすぐには思いつかない。
 ただ、覚えていないだけで、けんかして家を飛び出す経験は何度もあったのだと思う。
 家出において手段はそれほど主題にはならず、逃げる経験と勇気がそういったものを支えていたのでは、と思う。
 Aは今南のほうで働いている。Bは地元のほうで、週に一度くらいは帰ってくるらしい。
 私自身、独り暮らししている今、家出の感覚なんて、もうなくなっている。

鬼の伝承と子どもの危険認知

「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな」(そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね)

 鬼の話を思い出したのでちょこちょこ書く。それと関連して子どもたちの危険回避と認知の関係も。

 なお文フリ感想はかなり長くなるのでそのうちの予定。


 鬼と土地の関係に関しては今更語る必要もないと思う。かなり研究されているだろうし、むしろ聞きたいくらい。wikipediaの鬼の項目読んでいるだけで面白いもの。鬼が島やなまはげは言うに及ばす、私が行ったことのある地名(鬼面山や鬼首)にもそういった話があるのを聞いた。
 鬼の話は地元にも伝わっていた。
 伝承、伝説の類。
 小学生の頃配られた街に関する記録の本にそれらの概要が載っていて、面白がって読んだ記憶がある。鬼が現れて大変だったけれどどこかのすごい人が退治してくれて、いろいろ祭っているのがあの場所なんだよ、とか。実際行ったことのある場所とリンクしているから、へーとなった。あ、だからあの土地にはあの漢字が入っているのか、といったような。簡単に言ってしまえば坂上田村麻呂関連。ちゃんとwikipediaにも書いてあった。

大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。
Wikipedia - 坂上田村麻呂

 いつかこのへん詳しく書いておきたいな。記憶の範囲だとまずいし、実家から資料引っ張ってきたい。
 そんなわけで、鬼の存在は身近ではないものの、地名や伝承という形では、私の周りにもかなり残っていた。


 実家の近所の家。大家族で、いつも子どもたちの遊ぶにぎやかな声が聞こえる。とはいえ、地区で同年の子供が一人二人、なんて世界だから、むしろその子たちだけでしか遊べないというものもある。私だってその一人だった。
 山、沢、田、川。それらに囲まれた土地。
 その家のひいおばあさん――まだ存命どころか元気に毎日散歩しているその人――は、子どもたちのふざけすぎた遊びに対し、時々叱りを入れる。
「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな!」
 子どもたちは聞かず、暗くなっても遊び続ける。やがてお腹が空いて、家へと戻る。
 そう、「大人が子どもを怖がらせるための言葉」として、「鬼」というのがまだ残っているのだ。普段は子供たちが近づいてはいけない「山」からそれらが降りて子どもたちをさらっていく、というストーリー。

 不要だとは思うけれど付け加えておくと、子どもたちがそれを怖がらないのは「山に鬼がいないことを知っているから」だ。これはなにもサンタクロースの不在の観点から述べているわけではなく、子どもたちが山を別の危険性からとらえていることに由来する。私だって山から鬼が降りてくると言われても苦笑しかしない。
 山にいるのはもっと目に見える直接的な危険だ。
 防災無線――地区に設置された危険情報を流すスピーカー、SIRENのイメージが一番近いあの放送器具――からは定期的に熊の出現情報が流れる。
 小学校を卒業するまでに、ヘビには五種類以上出会う。毒のないものや危険なものまで。山に登らなくとも、道路や庭に出没する。
 カモシカでさえ、最近は人里におりてくることが多くなった。理由に関してはいまさら言うまでもない。ハクビシン、タヌキ、サル。
 山に登らないのは、鬼がいるからではなく、鬼以外がいるからだ。

 一応フォローする。あまり知識はないものの。
 昔の人はそれら直接的な危険を「鬼」と表現したのかもしれない。「山から鬼が降りてくる」というのはなんともストレートな例えだ。
 生き物に限らず、自然災害も、「人里におりてくる」ことがある。
 たとえば、砂防ダム――石や砂をせき止めるために作られたダム。地元にあるのは小さいタイプ――は、「鬼の顔をしている」とされた。鬼の漢字を含んだ名前が付いているものは実際今でも地元にある。
 凹の形に、水の出口の穴二つ。
 実際見ると、その仰々しさと古びた色、自然の中の建造物という違和感に、鬼の形容が納得できる。
 そしてもう一つ、頭に浮かぶ。鬼の顔をしたダムからあふれ出す、土石流。豪雨によって起こる直接的な危険。それこそが、「山から鬼が降りてくる」例えにふさわしいのではないか、と。


 ここからは、ひとつ気をつけて書かなければいけない。
 決して「最近の子どもたちは経験が足りない」なんてことを言うつもりはない。それだけ前置きしておく。私だって若いのだからブーメランになりかねないし。

 山の危険。現在になってもそれは人の力で抑えることができない。
 私の子どもの頃、山に登って迷子になったり、帰り道に腕の太さほどのマムシがいてどうしようもなくなったりした経験はある。それがあるからこそ、山での対応、危険生物の見分けと対処に関しては知識としてあった。親から教わった。
 沢で見る岩の形と苔の危険性、触ってはいけない植物、大まかな毒のキノコの見分け、足跡や糞から見る動物生息地域の検討、腕時計での方角把握、太陽が見えない時のため年輪からの方角把握。
 知識自慢でなく、それがない時の山の怖さ。
 今でも山に入ることは少ない。山菜採りは、無理しない範囲であれば深くまで入る必要がない。それは山を荒さない遠慮の気持ちなどでは決してなく、怖いからだ。

 最近では子どもたちは山に入ることがないのだという。止められているから、と。ある種それは正しい。入らなければ大変な事態にはならない。
 だが、鬼は山からおりてくる。
 道に立てられた「マムシ注意」の立て札。川べりの足元注意。防災無線の情報。
 中学の時、ヘビを見つけた近所の子供が棒を持って近づいて行くのをあわてて止めた。
「あれたぶん毒ないよー」「見えるか、あの模様? あれマムシだぞ」
 今の子は、ヘビが水面を滑ることを知らない。

 ヘビくらいならいいのだ。あれくらい用心深い生き物ならば。人間との対峙で逃走を選択するくらいの聡明な動物ならば。
 まるで罠のように張られた危険。山、沢、田、川。それらはとても見分けにくい。私は用水路に二度落ちた。友達は沼に溺れかけた。底はよく見えないが、すり鉢状の構造になっていたことをあとから知った。
 危険を体験しろというのでは決してない。体験しないなら、それはそれでいい。
 ただ、危険を見たことがなければ、危険回避は難しそうだ。
 刺激しなければヘビは自分から逃げていくということを、私は経験で知っている。
 子どもたちは見たことがないから、気になって近づき、ちょっかいを掛ける。


 子どもたちを見ているときに浮かぶ危うさ。
 それらはもしかして、私が大きくなったからわかるようになったのだろうか。
 大人が口酸っぱく注意したあの内容が「現実」のものであると、理解したからなのだろうか。
 同じように、私も子供たちに注意する時が来るのだろう。
 そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね。
 それは単なる過保護にしか見えないだろう。子どもを馬鹿にしすぎだと言われるだろう。私自身だって子どものころから対処は自分で学んでいるのだ。
 だから多分、私は大人になったら、注意の仕方を変える。
 危険性に対する知識を、なるべく間違いのないように、子どもたちにわかるように。
 その警告は、分かりやすくあろうと思う。
 少なくとも、「鬼」なんて仮想の言葉で、彼らの危険認知をにぶらせてしまわないよう。

リズムゲームが苦手だった

 音ゲー全然できなかったけれど気になったProjectDIVAに触れてみたらエンジョイできるようになったよという話。ありていに言えばProjectDIVA勧めエントリである。
 ……ところで私は最近こうやってエントリ序盤にアブストラクトを置いておくのを意識しているわけだけれど、梗概書く練習以外にはならないんじゃないだろうか。いいか。いいのか。


 初めてリズムゲーに触れたのはいつのことだっただろう。ほとんどハード持っていなかったし、覚えていない。ゲーセンでやることも特になかった。もともと敬遠気味。音楽への興味もそれほど高くなかったというのもあるかもしれない。そうなると初めては高校の時の某ステマニとかになるのだろうか。部活のPCに入っていて先輩がよくやっていた。ためしに触れてみたもののさっぱり。焦りばかりが先行し、楽しみ方もよく分からなかった。
 某太鼓のゲームもできなかった。もともと和太鼓ができないからこんなに下手なのだ! 小学校の頃の鼓笛隊もシンパルだった私はしようがないのだ! って思うくらいに。いや合唱コンクール指揮もやったけれど、まあ別だろう。あの太鼓ゲームもハードソフト揃えたらまた変わっていたのだろうと、今は思う。


 どこか自分の中で、苦手意識を克服したいと思うときがあった。ゲームであって義務ではないのだから克服も何もないとは思うものの、あれできたら楽しいだろうな、という考えは少しばかりあったのだろう。


 で、ProjectDIVAだ。

初音ミク -Project DIVA-』(はつねミク プロジェクト ディーヴァ)は、セガより発売された音楽ゲーム音声合成ソフト「初音ミク」に設定されているバーチャルアイドルのキャラクターを起用したキャラクターゲームである。2009年7月2日[1]にプレイステーション・ポータブル専用ソフトとして発売された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF_-Project_DIVA-

 軌跡シリーズがPSPに移行したのに伴ってハードを買い、それこそ「零の軌跡」と「イースVS空の軌跡 オルタナティブサーガ」くらいしか入れるソフトがなかった頃の話。いや今でもソフトそんなにないけれど。お金なくて。
 PSStoreで体験版を開拓してみようとダウンロードしたのが「DIVA2nd体験版」だった。四曲。モジュールいくつか。当時はなんだかんだどの曲も知らなかったはず。
 さくさくできて、はまった。
 体験版だとEASY(○ボタン一個)とNORMAL(○×二個)くらいなので簡単にできるかと思いきや、そうでもない。むきになりつつ楽しめる音ゲー体験は初めてだった。
 まず、ガイドがしっかりしている、というのが大きい。ノーツの重なり・長針・ノーツ配置の幅という三つのガイドによってかなり押しやすくなっている。これで慣れると他ゲームでもノーツ配置幅で大体のタイミングがはかれるようになるだろう。画面の色んな所から飛んでくるものの、ある程度長い間画面にいてくれるので、そういった意味でもタイミングははかりやすい。
 あとはPV。選んだモジュール(衣装セット)でキャラクタが踊り歌詞もでる、となると、PV見ているだけで楽しい。「集中すれば見えなくなる」どころの話ではない。「PV見とれてミス誘発」まである。恐ろしい子! モジュールに関しては体験版でいくつか着せられるはずなので気になる方は試してみるといいかもしれない。当時の私はへーこんなことができるのかと驚いていた。

 例えば曲に馴染みがない人でも、プレイして曲と歌詞を知り、この曲良いなというようになる仕組みが素晴らしいと思った。事実私はそうやって聴く機会が増えた。
 私なんかは当初、曲が特殊なものしかないのではないか、なんて予想を持っていた節があって、むしろプレイするうちにジャンルの多彩さに驚かされた。もう今では各ジャンルすごい曲数あるわけだし。DIVA1stとかだと「Ievan Polkka」「荒野と森と魔法の歌」「ミラクルペイント」あたりは驚いた記憶。いや、本当に聴いたことがなかったのだ。
 偏見だったと言えば間違いなくその通りなのだが、むしろきっかけがなかったことがあまりに大きい。知らないのだ。そういった広がりがあることを。DIVAはそのあたり、「ゲームから曲へ入る」触媒としてよく作用しているように思う。

 上手になったか、と言うと、微妙だ。パーフェクト埋めは全然やっていないし、まだクリアできていない曲はいくつもある。2ndだと「ぽっぴっぽー」EXと「サイハテ」EXがすぐ落ちる。1stの消失と2ndの激唱は除外。あれはもう「技術的に無理」じゃなくて「物理的に無理」って感じがする。前者だと、練習するうちに少しは出来るようになったということを実感できるが、後者、すなわちその二曲は「私の指がそれを押せるようにできていない」感じがする。まあ、それは置いておいて。

 arcade版(ゲーセン)もちょこちょこ。モデリングも違うし、HOLDや同時押しなどシステム差異もあって楽しめる。ただ最近筐体少なくなったなあ。ゲーセン通信系は大変そうだ。
 DIVAf(Vita)も欲しいのだけれど、ハード購入予定はなかなか立たない。逆に言うと、ハードを持っていない人はこういった「入り方」はできないわけで、また障壁だな、とは思う。アカウント問題と近い。


 自発的、というのは大きかったな、と。
 それこそ、経験者が急に背中について席に座らされおどおどプレイし、下手さに苦笑される、なんて流れだと、まずやらなくなる。経験談。
 だからまあ、勧めるのって難しい。特に最初から「テクニック重要」なのが出がちこのジャンルはその要素をもろに受けている。他ゲーだとストーリーとかキャラクタとか見てそこから入ればいいよー、なんて話もできるけれど。
 DIVAのPVの良さもそこにある。やってるのみてると楽しい。

 あとはまあ、ガチ勢か。当然ながらガチ勢になる義務というのはゲームにおいてない。ただ未経験者が入る上でそういった姿はやる気にも障壁にもなりうる。エンジョイ勢という言葉は――蔑称として使われない限り――ハードル下げにも十分貢献しているんじゃないだろうか。
 そのあたりもそのうち他ジャンルと絡めて考えてみたいところ。


 今ではちょこちょこREFLEC BEATとかも触るようにはなってきた。
 別の音ゲーもやってみたいかな、なんて思うようになった今、やっと「苦手」って言葉はほんの少し消えたかな、なんて思う。楽しめてそれが消えていくんだから、悪くない。

イースオリジン:強さという単語が響かない話

 イースオリジンの二周目をこの頃始めている。win7版じゃないから新PCにはインストールできないと思い込み仕舞っておいたのだけれど、普通に公式ページにvista対応方法書いてあったという。簡単だった。
 アクション久しぶり感とダンジョンの懐かしさが相まって、けっこうさくさく攻略中。楽しいなあ。
 というわけで、ユニカハード二周目が終わった感想。
 作中で繰り返される「強さ」という単語がストーリーを支えている分、その「強さ」がぼやけているのでよく分からなくなっているよ、なんてお話。
 ちょっとばかりネタバレ注意。ぼかしながらもボス戦前のことが書いてある。


 感想。一周目はユーゴ→ユニカだったから、むしろ、ストーリーのひねりばかりを意識していた。そう考えると、ユニカからやった時、展開のストレートさは映える。
 進むことのシンプルさが、塔登りの退屈さをなくす。
 徐々にレベルが上がり、困難をクリア。そうすることで、見習い状態から周りに認められ、力を借り、進んでいく。
 ラストの選択とともに、それはとても分かりやすい。


 しかしながら、このゲームをやっている時の「冷たさ」は抜けない。すごく淡々と進む。他キャラルートでも同じ。会話の飛ばし方・全貌の見えなさだけでないものがある気がする、と思い、少し考えてみた。


 知らない方のためにちょっと解説。
 イースオリジンでは、いなくなった女神たちを探すべく、プレイヤーキャラクタたち捜索隊を結成し地上に降りる。そびえ立つ塔に女神たちがいることを知って登り始めるが、そこは敵と魔物たちが住む魔窟だった。女神たちはどうして姿を消したのか? 敵の思惑とは? 主人公たちは自分の目的を果たせるのか? といった感じ。
 プレイヤーキャラクタ、ユニカ=トバについてはこちら。公式サイトより。

主人公の一人。
神官トバの家系に生まれた天真爛漫な少女。幼少の頃からサルモン神殿の女神宮に忍び込み、そのつど女神たちから妹のように可愛がられていた。神官の家系に生まれながら魔法の使えない落ちこぼれだが、あえて神殿騎士に志願し、女神の捜索隊にも強引に参加した。
http://www.falcom.co.jp/yso/character.html

 見習い騎士だった彼女は、女神たちを追ううちに成長し、周りの力を借りて、困難を打ち破っていく。
 本作では複数のプレイヤーキャラクタがいて、それぞれに背景・目的・展開・コンセプトなどが異なる。
 例えば、ユニカでいうと、「魔法が使えない、しかし」というのがある。
 その言葉は作中いつでも暗示される。
 わたしは魔法が使えない、しかし女神たちを助けたい。
 彼女は魔法を使えない、しかし違う強さを持っている。
 彼女に対し立ちはだかるのは、当然、魔法の力だ。魔法具がないと通れない陣、魔法によって通れない場所、強大な敵の魔法に為す術のない状態。
 それらを攻略によって、あるいは周りの力を借り、打ち破っていく。強大な魔法を持つ敵も倒す。


 ……なのに、プレイしていて消化不良感が抜けない。
 最初は、「敵を倒しきれない」ところにあるのだと思っていた。HP削りきって「次は許さない」みたいなことを敵が言って転送魔法で消える。いくつかそういう戦いがあって、こうなるとユニカの頑張っている印象が遠く感じるのだ。ましてやこちらは魔法のない身。敵は言いたいことだけ言って戦わず去って行ったりもする。
 同じ会社のゲームである零・碧の軌跡でも表面化したこの感覚は予想以上に大きいのかな、と。壁を打ち破る一巻での敵を倒すというの流れなのに、敵はまだ余裕を持ったように立ち去っていく。
 しかしながらこのゲームは零・碧の軌跡と違う。イースオリジンでは、敵は最後に倒せる。一度目では倒せなくても、決戦の場は用意されている。
 ならば、やるせない感覚はここから来てはいないのだろうか。


 考え直すと、「魔法」の強大さが引っかかりになっているようだ。
 今作における魔法は強い。
 あまりにも。
 それはキャラクタからも伺える。捜索隊にも魔法使い勢が幾人もいるし、闇の軍勢はほとんど魔法を使える。


 例えば、転位魔法をあげよう。
 敵が現れるとき、消えるときによく使う。未プレイの方はポケモンの「そらをとぶ」だとか「テレポート」を想像してもらえるといいかもしれない。あと少しで倒せそうな時も、大事なものを奪われた時も、それで逃げられてしまう。
 ユニカはそれを使えない。
 せいぜいが捜索隊として渡されたクリスタル(地図)を用いて既知の場所(セーブポイント)に転位するくらい。いくら強くなってもその差は埋まらない。究極的なことを言うと、闇の軍勢が女神たちをさらい転位魔法を使って塔の色んな場所に逃げ回られたら捕まえようがないのである。
 塔を登り、困難を排除し、女神たちを探すというコンセプトからすると、魔法はとても遠く見える。

 ここで注釈を入れておくと、魔法の強さは世界観からの要請ということだ。黒真珠の話だとかシリーズ通しての設定だとかからするとそれは当然のことである。
 そういう意味でユニカが「魔法を使えない」ということは一つのポイントとして理解できる。
 魔法を使えないプレイヤーキャラクタ。だが「魔法を使えない、しかし」という文言が彼女を塔に登らせる。
 魔法以外の力によって、ついに敵へと肉薄する。その流れまでは分かりやすい。


 しかし、そこからだ。
 ラスボス戦前。
 彼女は強大な魔法の力に押しつぶされかける。
 そして、強大な魔法の力によってそこから難を逃れ、道が開かれる。
 ここがつらい。
 成長を見てきたプレイヤーにとって、その力があまりに強大すぎて、結局駄目なのだと思ってしまう。「敵を倒せる者」は自分ではない。
 そこから助けられても、「助かった要因」は自分ではない。ありていに言えば蚊帳の外なのに、ラスボスに挑むのはユニカだ。とてもやるせない。
 そこからのラスボス戦。もはやなぜユニカが戦っているのか分からない。ましてや魔法能力の権化のようなラスボスをどうして倒せたのかも、プレイしていて理解ができなくなる。
 このあたりが消化不良の要因なのではないか、と。
 魔法を使えない、しかし別の力でそこまであがってきた。ところが作中で戦うその場所に、ユニカはいても、ユニカの力はほとんどない。


 「魔法を使えない、しかし」、というユニカストーリーのコンセプトをしっかり貫いてほしかった、とは言えない。まわりの魔法の力によってユニカが助かった場面も多々あるからだ。別ストーリーから言っても、魔法の強大さの要請は必須だろう。
 ただ、どうにも空しいのだ。見方によっては、ユニカじゃなくて他の人が戦えばもっと簡単な結末になったのではないか、と思ってしまう。
 ユニカの、他の人の力を借りる場面はおそらく最後まで必要だったのだろう。しかしながら、あまりにその力が彼女にとって届かない位置にあり、そして簡易に魔法が行使されているように描写されている以上、その空しさは消えない。


 ここまで書いてから、読み返して首をひねる。
 言うのが難しい。
 ユニカにしかない能力で倒してほしかったかというとそうでもない。魔法が出てきて欲しくなかったかというとそうでもない。ヒロインなんだから届いてほしいなんてストーリー約束を語るつもりもない。
 ただ、感情的に描かれている終盤なのに、冷めていくように見える。
 それはなにより、魔法行使が簡易で強大すぎて、作中で語られる「強さを持つ」だったり「ユニカの強さ」だったりとそういったものが、あまりに適当に語られすぎているからだろう。サブキャラクタの言葉があまりに空しい。強さという言葉は、ユニカへの慰めに使われる単語ではない。
 頑張っていて、魔法以外の力を得て、周りの力を借りて、切り開いていったはずのユニカが、ボス戦になると道化に映る。これがあまりにも悲しく、淡々と進むストーリーだと感じてしまうのだ。