諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

小説草稿完了から精読までの間に軽く校正することリスト

 物語原稿書き終わって、すぐ赤入れ、となると、「内容に関する赤入れ」と「文章に関する赤入れ」がごっちゃになる、ということがよくある。どちらも重要であることは間違いない。ただその読み返す時の意識は二つを分けるだけで変わり、見逃しが少なくなる、と思う。
 というわけで、一からしっかり読み返すその前に、単純な部分を一度見て直しておく。いわば一次修正。
 これはそんな確かめるべきことリスト。
 ただ当然、リスト中の「統一」に関しては例外となる破戒テクニックもあるため、まずは統一を意識しつつの破戒、みたいなことを意識して置いていることに注意。そういうわけでその三はやや設定や人に依存。
 あと配置/組版は、センテンス/パラグラフくらいの領域差異によるもの。分けなくてもよかったかな。

 毎回こんなリストを作ってはどこかに無くしたりするので、せっかくなのでここに保存しておく。随時追記予定。


確かめること

○その一:文に関すること
・誤字脱字修正
・鍵括弧、括弧内括弧の統一
・漢数字の統一(例外あり)
・句読点修正
・漢字と平仮名の重複取り(例外あり)
・感嘆符疑問符後のスペース統一
・名前および固有名詞に振りがな

○その二:配置に関すること
・行頭開けもしくは全角空スペースの統一
・フォントの統一
・カーニングの注意
・章記号と位置の統一
・「――」の統一、詰め(ワードアート、もしくはフォント→文字間隔→狭く・0.9ptなどいろんな方法あり)
・ぶら下げの注意(「……」後に行変わり、行変わり後のぁぃぅぇぉゃゅょっをどう扱うかなど)
・空行数の統一

○その三:統一に関すること
・人称の意識(人称表を作る・人称変化を記録しておくなど)
・改行の意識
・行中の鍵括弧の統一
・引用台詞行頭下げの統一
・「……」前後の読点の意識
・列挙の意識(aやb、c)
・「けど」「けれど」「ものの」の意識
・「しかし」「だが」「けど」の意識
・「〜から」「〜たり」「〜や」「〜と」「〜および」の意識
・「、と」「と、」の意識
・助詞過剰重複避け

○その四:組版に関すること
・余白、ヘッダーフッターの確認
・文字数や行数、行間字間の注意
・セクションの注意
・章タイトル位置の確認
・二段組みの適用注意(wordなどはたまに上下文章がふり分けられているときあり)
・インデントの適用注意
・右寄せ等の確認
・ページ数の確認
・目次とページ数の一致
・パンくず内容、位置の統一

※その他
 単語入れ替え、主語の肥大、修飾語位置の調整などに関しては別にくくろうと思ったものの、省略。
 理由としては、それらを言語化しようとしたらすでにそういった記事が見つかったから。下記サイト記事に従い読み返すと、ルールに則り完璧に見直すことができるので個人的にとてもおすすめ。

> 驚くほど違う→あなたの文章を最適化するたった4つのルール - 読書猿Classic: between / beyond readers
> http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-562.html

氷にならない世界

  • そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故?(谷川流 / 涼宮ハルヒの憂鬱)
  • 僕はいかにも自分が主人公であるような気分で生きているけれど、よく考えてみれば、他人の人生の中では脇役に過ぎない。そんなことに、今さらながらに気がついた。河崎たちの物語に、僕は途中参加しているのかもしれない。(伊坂幸太郎 / アヒルと鴨のコインロッカー)

 自分以外の膨大な数の人生。
 それを肌で感じた時、逃げ出したくなる。動揺する。

 よくあること、で済みますか?

 イベントで集まった人混みを見た時。高い塔から街並みを見下ろした時。長蛇の列にうんざりした時。たくさんの手紙がそれぞれの場所へ送られるのを実感した時。歴史表に並ぶ長い長い時間と出来事の群れを読んだ時。自分の体験したことのない世界を、見せつけられた時。
 他人は他人、自分は自分でその気持ちを抑えつけられないほど、「自分以外」のあまりの多様さを痛感する。

 よくあること、で済みますか?

 知らない時間、知らない星、知らない国、知らない土地、知らない家族、知らない繋がり、知らない人。
 いつもそれにさらされている。知らないことを知る機会はいつだってある。知らないということを知る機会もいつだってある。
 時間も、世界も、人も、止まってはくれない。知らないことを知りきる機会だけがない。

 そして、それらが止まってくる瞬間を知った時、もう一度、身震いする。

遊びの称号ランクに関する失敗例

 昨日のボードゲーム日記に関連した昔の話。
 小学校の時も当然いろんな遊びが流行った。雨の日はインドアな遊びが多め。さすがにトレーディングカードゲームは禁止だったものの、トランプやUNO、将棋なんてのも一時期。定規はじきとか鉛筆サイコロとか、牛乳瓶のふたを重ねて転がしたりと身近なものを使ったのも多数あった。飽きが早いお年頃。通り過ぎて行ったゲームの数は数えきれない。
 その中で手だけを使う遊びもいくつかあった。
 えっと、ほら、あの親指出して、全体の数当てたら勝ちという、あれ。
 ちゃんとwikipediaがあったので貼っておく。私の地域では「いっせーのーせ」。
手を用いた遊び - 数字を指定する遊び - Wikipedia
 単純なゲームルール自体はもともとあった。
 ある時、一時期これに階級制を付けるのが流行った。
 ランクはアルファベット順。皆最初はLランクからスタートし、このゲームで勝ったら一ランク上がり、負けたら一ランク下がる。そんな感じで強さを競った。たいてい一対一。それ以外だとランクの変動がつけにくいのだ。
 数日のうちにその遊びはクラス内で白熱しだし、男子女子問わずランク持ちが増えた。規定もどんどん変わった。Aランクの上まで行くと、S(Specialの方)ランクやSSランクまで増やして対応するとか、不正したらZランクまで下がるとか。今考えるとアルファベットSランクとSpecialランクはどうやって区別していたのだろう。確かSpecialまで行くとランクが下がりにくくなる設定もあった。
 ただ、長くは持たなかった。
 問題としては、ランクに差がある人との対戦に関して。上ランクの人はあまり戦うメリットはない上に、ランク差があると「下ランクの人が買ったら上ランクの人の称号をもらえる」なんて特別ルールができ、新しく遊びに入った人がいつの間にかS、なんてことになった。ちなみに私もそれ。
 上ランクの人はこのルールのせいであまり戦わなくなり、新規の人も申し訳なくなって嫌になった。勝敗によるランク上下もどんどん特別ルールができたせいで訳が分からなくなり、いつの間にかその遊びは廃れていった。

 今やったら、当然ながらルール設定はしっかりするんだと思う。この事例だと、「勝ったら一ランク上がり、負けたら一ランク下がる」を守っているだけでもっとこの遊びは持ったのではないだろうか。
 そういう遊びが好きだとルール設定も好きで、どんどん設定したがるようになる。それが性、とまで言ってしまうと違うけれど、ローカルゲームである以上ルールはどんどん変化する。ああいった急速な構築と崩壊はあまりにドラマティックで、記憶に残っていた。
 結局名前のつかなかったあのゲームを思い出し、あの頃を何人が覚えているのか想像にふける。

麻雀初心者に教える時のネックメモ

 小学校から高校までは麻雀を教わっていたが、高校からは教えることが多くなってきた。
 教えた人で私以上にはまった人は何人かいるし、彼らはおそらく私より勝率を保てる。勝利の適性について興味があるわけではないものの、どう教えるかについては悩むところである。
 その手の本はいくつも読んでみたし、今ではそういうサイトも多い。麻雀ゲームではナビゲーション機能すらある。ただあまり決定打というものはない。……ないかなー、決定版。この本だけ読んでおけばできる! みたいなの。
 口頭で教えようにも環境などの問題はあるが、とりあえずは「麻雀をやったことがない人が初めて座った時」や「やり方の概要だけ知っている時」によく引っかかる例についてメモっておきたいと思い、書き出してみた。たぶんもっともっとあるけれど、要点だけ。ちょっと特殊な書き方をしているので、経験者には違和感があるかも。

  • 牌の認識

 やったことのない人にとっては、かなりの枚数の牌をかきまぜたり並べたり倒したりするゲームという認識はあるものの、その構成については理解していないことがある。自称初級者の人が「これって全部4枚ずつなんですか!」などという例に遭遇したこともあるから。
 「牌の全体枚数と各枚数」「主な種類」「マークと数の認識」あたりがネックか。
 これらは教えることが楽で、しかも覚えてしまえば頭から離れることはないので、きちんと覚えてもらうことを意識すべきかもしれない。教える側としては当たり前すぎてむしろ抜かしてしまいがちだからだ。
 呼び方は後でもよいだろうというのは友人との共通認識。私の父が発する「チャッソー」は私自身しばらく認識できなかった。数字とマークさえしっかり把握できたら。
 あとはまあ、ドラ順番か。東南西北、白發中、九と一。これはドラの時に説明するくらいなのでそれほど重要視しなくてもいいのかもしれない。ただ当然「東南西北でそろったらなにかないの!」とか「これってオールマイティ!」などについてはケアしないといけない。

  • すでにある麻雀見学情報

 かなりの枚数の牌をかきまぜたり並べたり倒したりするゲーム、という認識が残っているおかげで、初心者の話が急に飛ぶことはある。それは教える上でいいことではあるものの、そこでの誤認が、テストプレイでのミスとして散見されることは多々あった。
 例として、牌の積み、手牌の並べ、ツモり方などは、むしろ外から見ていた認識があるために初心者でも難なくこなすことは多い。
 というわけで、ここでサポートすべきは細かい部分。教え方としてはテストプレイが妥当かもしれない。初心者本でもしっかり書いてくれるところはある。多牌少牌なんかは初心者にいくらでもあることだし、ゆっくり教えていくべきだろう。
 そして、それとは逆に、知識が邪魔をして引っかかりが大きいことがある。
 例は発声、あがり方などに関して。初めて牌を触った方三人とやった時、思った以上にツモとロンの違いを教えるのに苦労した。自分と相手という認識だけでは足りなくて、「あと1牌が出た時に」というのはあまり他のゲームにない特徴なので教え方が難しい。
 発声に関しては知識の範囲ではある。覚えれば染みこむし、麻雀ゲームがあればすぐ慣れるだろう。初代GBの役満のように、鳴くときにしっかりポンチーカンロンナガレを選択しないといけない、なんてハードルの高さは現代にはない。
 ただ、このゲームは「発声しないといけない」という誤認がある場合がある。よく言われる「初心者は鳴きたがる」というものには、「鳴いた時のゲームルール上のメリットデメリット認識の欠如」「早く一定形式に揃えたい感情」に加え、この誤認が引っかかっているような印象がある。

  • 一翻縛り

 長く書いちゃったな……やっとこれ。
 これは初心者とのテストプレイではよくあること。俗にいう「役なし」。
 訊いてみるとこれには原因がいくつかあるようで、単純な「役を知らない」だけではなく、「一定の形式に揃える」+「役を一つ以上つける」ことを認知していない状態であるとか、「役と点数を結び付けられず、なぜ役を付けられたら点数をもらえるのか、役や翻数によってどうして点数が変わるのか」ということを教えてもらえない状態だとか、様々。あとは「鳴いた時の役有効無効下降、もしくは状況による役に関する知識」も入れないと、牌を倒した時に役がない状態になる、なんてことも。
 これは大きなネックその1。正直、思い浮かんだ役でしっかりあがれるようになれば初級者を名乗っても構わないだろうと個人的には思っているし、ここさえまず抜け出せば、と思う。このハードルを越えると役の完全知識がなくてもゲームになるからだ。
 ここの教え方の決定版をまだ私は知らない。
 役がないと点をもらえないのとか、役の複合で点数が上がることとかは、ポーカーあたりを喩えに使えばいいのだろうけれど、ポーカーを知らない人も当然いる。
 「一定の形式に揃える+役を一つ以上つける」ことに関しては徹底的に教えてあげるのが一番なのかな、とも思いつつ、そうすると「リーチ」で意外と引っかかることが多い。そうすると役になる、というのは説明しにくいのだ。
 「役と点数を結び付けられない」に関しては、当然得点計算式が答えではあるものの、それは初心者には重い。軽く見せるくらいがいいのかもしれない。符計算はまだまだ遠いだろうし。
 偶然役について教えるのもなかなか。先に教えてしまうとそれ狙いばかり、なんてのはよくあることだ。
 七対子から教えるのは私も冗談でやったものの、あれは牌構成が例外であるため、あまり万能さを打ち出すとそこからの脱却が難しい。ある先輩は、七対子から教えたら白發中をわざわざ対子に揃えなおしてあがった例を見たという。
 「鳴いた時の役有効無効下降」は、これは良いとこの間褒められた。役一覧に書いてあげるだけ。「鳴いてもOK」「鳴いたら無効」「鳴いたら点数下がる」。そうすると知識の一部になるからとても楽とのこと。麻雀用品についている役一覧は簡易版であるため、こういう点を省いていることが多い。本だとしっかり役紹介ページに書いてあるものの、ずらっと役を並べたページには書いてなかったり、なんてことも。

  • 待ち方

 先述した「あと1牌」とか、その辺。待ちの形まで教えると初級編になるけれど。
 これはあがり方につながるということで、抜かすわけにもいかない。
 他をそろえてあと1牌で特定形式になる状態、すなわち「テンパイ」に関する知識なのでその辺のワードと絡めて教えるべきか。

 考え中。これも教えにくいよねー。「ある特定の形式」。これさえすればリーチかけられるよ、という教え方だとこり固まって点数が上がらないし。例外に関しては例外ときちんと教える。

  • 役の知識

 もう疲れた! なんでこんなに文章長くなるんだ!
 大きなハードルその2。
 もうこれは記憶、と言っちゃう経験者はかなりの数みてきた。それはそうなのだけれど、初心者はそう言われると離れてしまうことがあるので意外とそれは荒い。それはそうなのだけれど(二回目)
 かといって教えるのも……。出現頻度でソートして、まずは主要な役から、が妥当かと思い、この間ホワイトボードに書きだしたものの、当然ながら手を作るのが第二ネック。結びつきにくい。工具の知識だけ押し込まれても用法を知り体験できないと作業が覚束ない、というわけだ。
 こういうのはゲームや漫画本、なんて意見もあった。あとは他の人の見学なんて意見も。経験者があがった時に一つ一つ説明してあげるだけでも十分な効果はある。

  • フリテン

 麻雀におけるルール特徴。
 教える上では「自捨牌フリテン」「同順フリテン」「リーチフリテン」に分けないと引っかかるっぽい?
 ただ「捨てた牌ではあがれないんだよ」と教えるだけだと後々に影響が。

  • ドラ

 表示牌の次。それ自体は役にならない。などなど。意外とこれは「ボーナス点」の一言で何とかなりそう。赤ドラとかもその都度教えれば。

  • 点数計算

 ハードルその3。ここまでくると初級者脱却篇に入るのであまり詳しくは書かず。
 初心者にはどのへんくらいまで教えるのがいいんだろうか。「役が多いと点数が上がる」とかか。あ、あと基本的な、「25000ずつみんなで持って、そこから取り合ったりする」なんてところは説明で抜かしがち。
 父親からは、六本でマンガン、八本でハネマン……を小学校の頃教わった。これから入るのはいいかもしれない。明快。得点も1.5倍、2倍……だからそんなに複雑ではない。それ以下の点数は経験者に数えてもらう、というフォローを加えておけば十分。
 親のメリットデメリット、ツモロンの払い方なんかはここと絡めて。


……終わり。長くなって疲れた。

ねこっぽいSNS想像

 自分が猫になってゆるやかな生活をするネットゲームをみたい、みたいな想像はたまにtimelineでみる。もしかしたらあるのかもしれない。最近だと動物を動かすゲームはいくつもあるし、猫好きの人々によるSNSは多い。
 というわけでねこっぽい行動をとれるぼーっとしたSNSの想像。ねこなのにsocialとは。

 舞台は団地とかがわかりやすそう。登録すると部屋やメインテリトリーとして一か所割り当て(home)。ある程度拾ってきたものとかを置いておける(profile)。
 diaryとしては「鳴き声」として一行日記のようなものがつけられる。すぐかき消されるくらいの。部屋にある録音機のスイッチを押せばlogとして記録できるものの、その辺は自由。
 うろうろできる。思う存分。ただ、アクションはあまり。散歩に関する機能くらい。あまり他のプライベートにまでは入れない。縄張り争いまではいかなくとも。ねこsocial。猫社会。いや猫社会がどれくらいクリティカルな要素なのかはわからないけれど。
 公園の集会としてあるテーマで集まって喋ったりできる(BBS)。集会なので、固定設置というより時間によって活性化するくらいの。交替で集会を開ける。
 つながりは……そんなに濃くなくてもいいのかなーとか。待てSNSじゃないなそれ。
 特定の人からミニスピーカーをもらうことで「鳴き声」を自分の部屋の壁に流せる、くらいがいいかもしれない。timelineやvoiceよりもっと消えやすいくらいの。ミニスピーカーは音声主が簡単に配れ、持った人も簡単に除去・再設置できる。
 初心者向けに、公式インフォメーション猫のスピーカーやヘルプ猫、ナビゲーション猫のスピーカーがデフォルトで設置されていたりする。
 バグとかトラブルとかは人間の範疇ということで、一旦サービスを出て公式サイト上で解決の流れ。こういう、内部とその包括をしっかり分けるのっていくつかのサービスで見られていて面白い。
 tagとか好きなものとかはホームに名札とかで設置。
 likeやfavoriteは……プレゼントでクッキーとか魚の骨とかをテリトリー前に置くことができるくらいの。飾ったり食べたりできる。ゆるい。

 列挙しすぎた。今週忙しいので空き時間にこんなとりとめのないことばかり考えてしまう。猫になりたい。

地元に帰ったことと帰ってきた若者のこと

 お盆は多忙で休めず、かわりに二週後の月曜日から一週間ほど休暇をもらった。
 せっかくだしその期間のことを日記に書こうと思ったものの、火曜日に呼び出しがかかり水曜日には戻ってしまったので、それほどゆったりしてはいなかった。
 というわけで、月曜日に帰った時のこと。

 実家に帰ったのはいつ以来だったか。遡る遡る。たぶん年末年始以来。
 バスに何時間も揺られると時間の感覚がなくなってくる。そろそろ夕方。急に車体が揺れ、眠気を飛ばす。地元の道路はまだいくつかこういうところが残っている。
 震災の爪痕。去年、地元に帰ってきた時は、むしろその「回復力」に驚いた。内陸地域ではあるにしろ、震度7を記録し、倒壊する建物があり、道路がしばらく通行止めになっていたこの場所。回復するための頑張りが、一見するだけでは分からないほどに街を回復させている。
 当然、これは一部だ。それを忘れてはならない。ここから車で三十分も走らせれば、未だに建物が軒並み消え去ったままの地域がある。南へ数キロの空き地には、仮設住宅が並んでいる。爪跡が残っているところと、直したところ。それらが混在し、未だ途中であることを意識させる。

 バスが着いて、しばらくあたりをうろつく。こうしてみると、バス停周辺の景色は数年前と全く変わらないように見える。隣の公園も並木も。
 と、そこに、たむろしている若者がいた。
 公園の芝生に堂々とバイクやスクーターで入り、バイクを弄ったりしゃがみこんで喋っている。
 新鮮に見えた。彼らが。
 ……もちろん、昔にそういう人たちがいなかったわけではない。前からいた。古いショッピングセンターの駐車場に、コンビニの前に、歩道をふさぐように、彼らはいた。私も前に絡まれたことがある。
 なら、どうして新鮮に見えたのか。
 ある時、彼らは消えたからだ。あの、震災の時。
 電気も水道も電波も交通網もガソリンもなくなりかけた、あの日々。当然のように街に彼らの姿はなかった。「それどころじゃなかった」から。
 あれから一年半。彼らが戻っていた。彼らが戻ってきたことの是非については別の話でありここで述べる気はないけれど、そうして昔の姿と変わらない様子を見せていることに、新鮮さを感じた。
 もちろん、彼らのいる景色は前と同じではない。彼らの近くに置いてある自動販売機は震災時供給対応のものにすべて切り替わっているし、工事が遅れている歩道は未だに大きくへこみ、マンホールの部分だけ急に盛り上がっている。
 それをみて私は、「戻ろうとする力」の強さを思った。
 地元に戻ると、本当に思う。その力があまりに圧倒的であることを。地震から一か月経って戻った時もそうだった。戻ろうとする力。応援や状況変化とはまた別のベクトルで、その力は大きくかかっている。
 当然その力も万能ではない。それを思うと、何とも言えなくなる。

 実家へ戻る途中、父と話す。
 親戚の家の話。やや高いところにあったものの津波の被害は免れず、ちょうど敷地が津波に覆われる境目のところで、瓦礫がかなりの量つみあがっていた。
 最近、やっと家の再建に関する話が持ち上がってきたものの、建てる予約はもう数年にわたって埋まっているらしいとか。それでなくても建築制限がかかっているので、まだどうなるか分からない。
 移転したケーキ店の話、目に見えて混んでいるパチンコ店の話。
 私の現住アパートの近くでは空き部屋がかなり少なくなった話。
 強いが万能ではない力のことを、もう一度考えた。

引っ張る泣き声

 子供の泣き声がこんなにも苦手になっているとは思わなかった。

 昨日、スーパーに行った。
 安売りのカップ麺を探している時、中央の通路を走る男の子の姿があった。見た目五歳ほど。不安げな顔で、「お母さん、お母さん」と言いながらふらふらと通り過ぎていく。やがて声が不安定になり、泣き出した。
「おかーさーん!」
 声量が大きく、震えたその叫びは店内に響く。スーパーはそれほど広くなく、迷子というほどの状態ではない。無関係の私ができることは少なそうだった。
 案の定、その子はふらふらと親の姿を探し、レジのほうに向かった。泣き声が遠ざかっていく。二分もすると静かになった。見つかったか店員さんに声をかけられたかしたのだろう。

 私が驚いたのは自分自身に対してだった。その子の泣き声に、言いようのない不安と焦燥を感じ、その場から離れたくて仕方がなくなったのだ。肋骨の辺りをつめで引っかかれるような感覚。
 そそくさとその場を抜け、泣き声が小さくなるよう端の売り場まで移動して息を吐く。目につんと来るものを感じて、本当に驚いた。遠くで聞こえる泣き声が、背中に爪を立て、引きずり込んでくる。
 正直言って、その泣き声を忌避したくて仕方がなかった。今まではそんなことなかったのに。むしろ慰めることだってできたのに。
 どうしてだろう、と、帰り道で考える。

 自分だって子供の頃、泣くことは沢山あったのだ。そしてそういう記憶ほど、ずっと残り続ける。
 ただ、自分の泣き声が、どれだけのひきつける「力」を持っているのかは分からなかった。
 しかしあの子の声は、ものすごい「力」で、引っ張り込んできた。なにかをせずにはいられないような声で。

 まだちょっと、よく分からない。きっかけなんてないのかもしれないけれど、いつの間にか、苦手になっていたのだろう。
 ちょっと怖い。もっとあの声が嫌いになったら、たとえそれがどんな状況であろうと、逃げ出してしまうに違いないから。