諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

今やったらどれだけ早く終わるのか問題

 この間、タスク処理から夏休みの宿題の話になった。
 「とりあえず一区切りずつ分担しよう」「一週間に分けてやればすぐ終わる、たぶん」「なんか夏休みの宿題みたいだな、『一日三ページやれば七月中に終わる』みたいな」「あったあった。でもやらない」
 ありがちな話ながら、やっぱり考えてしまう。

 私の場合。小学校低学年の頃は問題もそれほど難しくなく、夏休み序盤にしっかりこなしていた。それがどんどん年齢上がるにつれ宿題を後回しにするようになり、中学校くらいではもう最終日までかかっていた気がする。

 宿題で一番つらかったのは、実は読書感想文。
 部屋にこもり、机に本と原稿用紙だけを置いてひたすら座ったまま。時々ペンを持つ。それをやっても三日かかった。うまい文章が書けないのではなく、ただ規定枚数を埋めることができない状態。
 今ではそんなことはないだろう。場所問わず時々感想書いているし、一定量の文章も引っかからなくなってきた。二千字かあなるほどそれくらいでまとめろってことねー、と言うかもしれない。
 あの時は、出てこなかった。ただ埋めるだけの言葉を考え続けていた。

 考えてみると、小学校中学校で原稿用紙五枚程度の文章を書くというのはそれほど多くなく、例えば短い作文や今日の出来事などからその文章量を上げていく流れだった。中学卒業くらいになればその文章量を要求されるようになるだろうけれど、それまでの練習不足状態における原稿用紙五枚というのは大きかった。
 やはりあれくらいの長さになると、今日の出来事のような列挙だけでは、埋まらないし進めようがない。そうなると「どのような話の持っていき方にするか」と「その矢印の内部と間を埋める文章の作り方」の二つが付き、それに慣れない限りどんどん袋小路に入っていく。ただ好きな分かれ道を選び入り込み続けるだけでは迷路を解くのに一苦労。計画立てか、法則の理解か。

 もう一つは、好きなものの好きさを書くことについてだ。自由に選んだ本であろうと、その気に入ったところ、心を動かされたところ、生活に生かせたところ、それらを言葉にすることへの慣れなさ。あれは練習なのだろうか、語彙力なのだろうか、それとも他の要素があるのだろうか。
 言うまでもなく、課題図書だとさらに。

 学年が上がるにつれ、単調な繰り返しの内容の宿題は減っていくように思う。別の要素が入ってきて、それらについてまだ知らない、もしくは知らないと思っていると、その変更に戸惑う。
 原稿用紙を埋められずずっと机に座り続けるように。
 いつか慣れるよ、と、その時の私に声をかけてあげられるだろうか。