諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

鬼の伝承と子どもの危険認知

「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな」(そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね)

 鬼の話を思い出したのでちょこちょこ書く。それと関連して子どもたちの危険回避と認知の関係も。

 なお文フリ感想はかなり長くなるのでそのうちの予定。


 鬼と土地の関係に関しては今更語る必要もないと思う。かなり研究されているだろうし、むしろ聞きたいくらい。wikipediaの鬼の項目読んでいるだけで面白いもの。鬼が島やなまはげは言うに及ばす、私が行ったことのある地名(鬼面山や鬼首)にもそういった話があるのを聞いた。
 鬼の話は地元にも伝わっていた。
 伝承、伝説の類。
 小学生の頃配られた街に関する記録の本にそれらの概要が載っていて、面白がって読んだ記憶がある。鬼が現れて大変だったけれどどこかのすごい人が退治してくれて、いろいろ祭っているのがあの場所なんだよ、とか。実際行ったことのある場所とリンクしているから、へーとなった。あ、だからあの土地にはあの漢字が入っているのか、といったような。簡単に言ってしまえば坂上田村麻呂関連。ちゃんとwikipediaにも書いてあった。

大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。
Wikipedia - 坂上田村麻呂

 いつかこのへん詳しく書いておきたいな。記憶の範囲だとまずいし、実家から資料引っ張ってきたい。
 そんなわけで、鬼の存在は身近ではないものの、地名や伝承という形では、私の周りにもかなり残っていた。


 実家の近所の家。大家族で、いつも子どもたちの遊ぶにぎやかな声が聞こえる。とはいえ、地区で同年の子供が一人二人、なんて世界だから、むしろその子たちだけでしか遊べないというものもある。私だってその一人だった。
 山、沢、田、川。それらに囲まれた土地。
 その家のひいおばあさん――まだ存命どころか元気に毎日散歩しているその人――は、子どもたちのふざけすぎた遊びに対し、時々叱りを入れる。
「そすたなごとしてっどやまがら鬼おりでくっからな!」
 子どもたちは聞かず、暗くなっても遊び続ける。やがてお腹が空いて、家へと戻る。
 そう、「大人が子どもを怖がらせるための言葉」として、「鬼」というのがまだ残っているのだ。普段は子供たちが近づいてはいけない「山」からそれらが降りて子どもたちをさらっていく、というストーリー。

 不要だとは思うけれど付け加えておくと、子どもたちがそれを怖がらないのは「山に鬼がいないことを知っているから」だ。これはなにもサンタクロースの不在の観点から述べているわけではなく、子どもたちが山を別の危険性からとらえていることに由来する。私だって山から鬼が降りてくると言われても苦笑しかしない。
 山にいるのはもっと目に見える直接的な危険だ。
 防災無線――地区に設置された危険情報を流すスピーカー、SIRENのイメージが一番近いあの放送器具――からは定期的に熊の出現情報が流れる。
 小学校を卒業するまでに、ヘビには五種類以上出会う。毒のないものや危険なものまで。山に登らなくとも、道路や庭に出没する。
 カモシカでさえ、最近は人里におりてくることが多くなった。理由に関してはいまさら言うまでもない。ハクビシン、タヌキ、サル。
 山に登らないのは、鬼がいるからではなく、鬼以外がいるからだ。

 一応フォローする。あまり知識はないものの。
 昔の人はそれら直接的な危険を「鬼」と表現したのかもしれない。「山から鬼が降りてくる」というのはなんともストレートな例えだ。
 生き物に限らず、自然災害も、「人里におりてくる」ことがある。
 たとえば、砂防ダム――石や砂をせき止めるために作られたダム。地元にあるのは小さいタイプ――は、「鬼の顔をしている」とされた。鬼の漢字を含んだ名前が付いているものは実際今でも地元にある。
 凹の形に、水の出口の穴二つ。
 実際見ると、その仰々しさと古びた色、自然の中の建造物という違和感に、鬼の形容が納得できる。
 そしてもう一つ、頭に浮かぶ。鬼の顔をしたダムからあふれ出す、土石流。豪雨によって起こる直接的な危険。それこそが、「山から鬼が降りてくる」例えにふさわしいのではないか、と。


 ここからは、ひとつ気をつけて書かなければいけない。
 決して「最近の子どもたちは経験が足りない」なんてことを言うつもりはない。それだけ前置きしておく。私だって若いのだからブーメランになりかねないし。

 山の危険。現在になってもそれは人の力で抑えることができない。
 私の子どもの頃、山に登って迷子になったり、帰り道に腕の太さほどのマムシがいてどうしようもなくなったりした経験はある。それがあるからこそ、山での対応、危険生物の見分けと対処に関しては知識としてあった。親から教わった。
 沢で見る岩の形と苔の危険性、触ってはいけない植物、大まかな毒のキノコの見分け、足跡や糞から見る動物生息地域の検討、腕時計での方角把握、太陽が見えない時のため年輪からの方角把握。
 知識自慢でなく、それがない時の山の怖さ。
 今でも山に入ることは少ない。山菜採りは、無理しない範囲であれば深くまで入る必要がない。それは山を荒さない遠慮の気持ちなどでは決してなく、怖いからだ。

 最近では子どもたちは山に入ることがないのだという。止められているから、と。ある種それは正しい。入らなければ大変な事態にはならない。
 だが、鬼は山からおりてくる。
 道に立てられた「マムシ注意」の立て札。川べりの足元注意。防災無線の情報。
 中学の時、ヘビを見つけた近所の子供が棒を持って近づいて行くのをあわてて止めた。
「あれたぶん毒ないよー」「見えるか、あの模様? あれマムシだぞ」
 今の子は、ヘビが水面を滑ることを知らない。

 ヘビくらいならいいのだ。あれくらい用心深い生き物ならば。人間との対峙で逃走を選択するくらいの聡明な動物ならば。
 まるで罠のように張られた危険。山、沢、田、川。それらはとても見分けにくい。私は用水路に二度落ちた。友達は沼に溺れかけた。底はよく見えないが、すり鉢状の構造になっていたことをあとから知った。
 危険を体験しろというのでは決してない。体験しないなら、それはそれでいい。
 ただ、危険を見たことがなければ、危険回避は難しそうだ。
 刺激しなければヘビは自分から逃げていくということを、私は経験で知っている。
 子どもたちは見たことがないから、気になって近づき、ちょっかいを掛ける。


 子どもたちを見ているときに浮かぶ危うさ。
 それらはもしかして、私が大きくなったからわかるようになったのだろうか。
 大人が口酸っぱく注意したあの内容が「現実」のものであると、理解したからなのだろうか。
 同じように、私も子供たちに注意する時が来るのだろう。
 そんなことしていると山から鬼が降りてくるからね。
 それは単なる過保護にしか見えないだろう。子どもを馬鹿にしすぎだと言われるだろう。私自身だって子どものころから対処は自分で学んでいるのだ。
 だから多分、私は大人になったら、注意の仕方を変える。
 危険性に対する知識を、なるべく間違いのないように、子どもたちにわかるように。
 その警告は、分かりやすくあろうと思う。
 少なくとも、「鬼」なんて仮想の言葉で、彼らの危険認知をにぶらせてしまわないよう。