諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

保存性と利便さの割合

 PCのデータがさっぱり消えて、ここのところはバックアップを探す作業。修理が終わるまで、手元に揃えておかないといけない。
 今回は起動できなくなるほどひどい状況ではなかったので、修理に出すまで間があった。必死に外付けHDDに移していったり、「これはDropboxに入っている」「これはUSBメモリーと同期してある」などと騒いだり。たいていのはコピーできたもののいくつか取り逃したのは間違いない。
 これでも前回よりはましだった。重要な書類をまとめている最中にぶつりと画面が消え、戻らなくなった。BIOSまでもいかないので、リカバリディスクもlinux起動もできない。半泣きになりながら、メモリースティックに残るちょっと前の書類データを必死に直したのを覚えている。PC借りて。
 CD音楽データも今回かなり消えた。たいていは実家にあるので、また帰省した時に入れる必要があるのかと暗澹たる気持ちになる。そういえばiTSで買ったのはどうなるんだっけ。

 まあ、文章関連は、たいてい残してある。
 本体とDropboxUSBメモリースティック。そんなに容量を食うものでもないし、同期にさえ気を付けていれば、という。
 ただ、家には、作業途中のものはない。あるのは過去の完成原稿やアイディアメモくらい。こうやってPCに異常が出た時のために、作業途中のも印刷しておけば、いま部屋でなにもせずぼうっとしていることもなかったのかな、と思う。

 保存性。それを考えると、「物」というのは強い。
 少なくとも私の作業環境について考えると、将来紙がさっぱりなくなるということはないように思える。
 利便性は確かにデータが圧倒的だ。原稿書くのも、アイディアをまとめるのも、組版するのも。だけれど、完成原稿の保存と、アイディアメモに関しては、やはりデータではどこまでも不安だ。紙に残しておきたい、という思考が働いている。

 だけど、この思考は正しいのだろうか。
 結局、PCや保存媒体だろうと紙や本だろうと、燃えて無くなってしまう点では大差ない。おそらく私自身が脳内で比べているのはその媒体の「脆さ」で、その脆さに不安を感じるから、両方で保存、という体制をとっている。
 PCに取り込んでも、CDを捨ててしまわないのと同じように。
 それはまた、PCでバックアップディスクを作るのと似た発想でもあるのかもしれない。「前の状態に戻せる」という。同じデータながら、PCの脆さとディスクの脆さを比べている。

 CDとデータでは、やはり共用していきたい。
 その気分は、レコードからCD、とはまた違うのだろう。あれは、物としての保存性はほぼ同じながら、利便性が大きく異なるからだ。だから、「自分が重要視するそれ以外の要素」がない限り、移行を積極的に進める。音のよさとか、その物の価値とか。

 今度CDに代わるのはダウンロード販売なんだろうか。未来予測は難しい。
 「ダウンロード販売」より、「サイズはより小さく内容量が大きいデータ媒体販売」のほうが個人的に強そうだと思えるけれど、現状そうではないからだ。先述の思考だと移り変わるのは「物から物」で、共用するのは「物とデータ」だとばかり思っていたけれど。

 ストリーミングというのも聞いた。聴く権利を買ってしまえば、あとは毎度ダウンロードするように、と。あれは、保存性を外部に求めるもので、これもまた、違う視点からの保存性の確保に思える。
 「あらゆるものをきちんと保存できる領域」というのが世界のどこかに作られてしまえば、求められるのは「ストリーミング的なアクセス」、すなわち利便性にだけ特化された、「領域に触れられる」ものだけが、手元に残るだろう。
 家にはアクセスデバイスしか必要ない。物のすべてが領域にあるのだから、それを随時呼び出すだけ。音楽も、文書も。
 ソファで寝たければ、その時だけソファを部屋に呼び出せばよい。起きたらソファを消す。なぜなら、領域にあるソファの原本は、保存が保証されているから。

 逆に言うと、そういった絶対の「保存保証領域」が作られない限り、物と物、物とデータの共用は続くように思える。その共用の割合は変わるにせよ。レコードだって世界にはまだまだ残っているし、残り続ける。
 むしろ消えやすいのは紙だ。なぜならすぐに印刷できるから。領域から呼び出すように。でもまあ、印刷も紙の保存性も、絶対な保証はされていないから、まだストリーミング的な扱いに移行しきることはない。