諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

アルバムが私を読む

 卒業アルバムを見たい、というようなシチュエーションというのはいったいどこから生まれたのだろうか。
 あれだ。恋人を自室に招き入れると卒アルを見つけその話題で盛り上がる、という定番の流れ。どれだけメジャーなシチュなのかは知らない。中学時代の友人は誰かと話す話題がなくなると毎度卒アルを引っ張り出す、と言っていたけれど。
 確かに、友達の家に行って、卒業アルバムがあったら見せてほしいと言ってみることはある。そして同じように、見せてほしいと言われることも。そして自分の昔の写真を見られるのはやはり躊躇するもので、友人との距離の近さなどを考えつつ渋々頷いたりする。
 卒業アルバムは会話のきっかけとして優秀だ。過去の姿、同級生、イベント、校舎、授業、卒業旅行……。かといって当然話したくない内容もあるだろう。ある種の爆弾にだってなりうる。そう考えると、話題のきっかけとして十分とはいいにくい。

 私の痛い経験としては、写真立てプレゼント事件というのがあった。
 小学校六年生の時。ある日の昼休みに、学年主任の先生がカメラを持ち同級生のところをまわっていた。なにやら各人が遊んでいるシーンを撮っているらしい。私のところにもきて、「おもいっきり笑って!」などという。
 そう言われてすぐ笑えるほど器用でなかった昔の私。
 適当でもいいやと、眉を寄せ左の口角を上げて――ああ、思い出したくもない!――ファインダーに収まった。
 あまりに気の入っていない顔だったけれど、おそらくただの写真記録だろうと高をくくっていた。
 が、当然それでは終わらなかった。
 卒業式の前日。下級生から卒業生へのプレゼントとして、彼ら作った手作りの写真立てを渡すイベントがあった。当然、その額縁には各卒業生の写真が入っていて――
 ああ、もうやだ!
 そんなわけで、皮肉ぶった史上最悪の表情をした写真立てを頂いた私は、もう二度と覚悟もなしに写真に納まらないことと、笑顔練習することを誓ったのだった。
 その時の私は知る由もない。翌日の卒業式のアルバムに、同じ写真が用――