諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

見返りなしに褒める子の話

 中学の頃。
 ある社会教師にべったりの女の子がいた。ことあるごとに「先生大好きなんですよー」「先生の授業だけ楽しい」とにこにこ言う彼女は、いつもはそれほど目立ってはいないものの、その教師に対しては物凄い語彙力で崇めていた。
 既婚どころかすでに五十歳を越したその教師は苦笑しながら身長百四十センチほどの彼女をいつもあしらっていて、その構図が傍目に見ていて面白かったのを覚えている。いつもはかなり厳格でしっかり受け答えのできる先生だからだ。それを軽々と越えて引っつく彼女。
「わたし服買うの苦手なんですよー、先生、どんなの似合うと思います?」
「しらん。誰かに選んでもらったらどうだ」
「あー、それいいですね! わたし先生が選んだ服ならなんでも着ます!」
「馬鹿か!」
 と、こんな具合。彼女の返しが上手いというかぶっ飛んでいるというか、漫才のようになっていた記憶すらある。

 なぜこんなのを思い出したかというと、最近似たような人を見たからだ。
 特定の人に好意のごとく語彙を駆使して褒める。それはもう褒めちぎると表現した方がいいほど。横で見ていて面白いが、むしろそれが頭の回転の速さを示している感じがして、畏怖を感じる方が強い。

 媚び、とはまた違うのだろう。何かを得ようとするわけでも気に入られようとしているわけでもないからだ。見ていたあの行為は本当に「一方的な好意の投げ込み」で、考えてみると矛先にいる人は戸惑うのが当然と思う。
 そしてあの効果は大きい。媚びではないから第三者からの嫌われにはつながらなさそうで、むしろ見ていた私のように面白さや微笑ましさが先に来る。あとはなんというのか、言葉が違うのかもしれないけれど、世渡り上手な印象。

 私にああいうことはできない。たとえ演技でも難しいだろう。あの受け答えのテンポと語彙力は、単純なべったり感とは一線を引く、高度なコミュニケーション能力に思える。それはまあ、能力を持たないことだけに起因するのだけれど。さらりとできること自体がなにかの能力なのかもしれない。

 中学三年の時、実験で同じグループになり、その子とその子の友達が話しているのを聞いていた。
「ほんとあの先生好きね」
「だって、はなし聞いてくれるんだもん」
 そんな会話を耳にし、好意とはなんなのか、再び分からなくなる。