諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

アニメ感想氷菓六〜七話:尺の話とか感想とか

 氷菓感想の続き。今回は六・七話編。次は愚者のエンドロール編終了後に書こうかな。
 今のところ、短編集を時系列に合わせ挿入していることで三短編が放映されている。そのうち六話、七話は一編で一話を支えている構造。
 ふむー、むつかしい。
 やはり気になるのは尺の問題。古典部シリーズは短編のみならず長編でもエピソードの区切りがはっきりしている部類なので、そこをアニメにするとなると三十分への落とし込みが重要になりそう。当然、短編でも長さやスケールは一様でないので、そこのところをうまく調整しないと、という。
 そういう意味で一話後半に短編を入れつつ入部のシーンに繋げたというのはおーとなったわけで、ちょっと時間の飛ぶ「大罪を犯す」「正体見たり」の配置は一話としてきっちり取る、というのは分かる。

 個人的にツボだったところとしてはやはり「大罪を犯す」の摩耶花の怒りのシーンや「折木が怒るわけないじゃない」などのところ。原作でも摩耶花の台詞回しはかなり面白く、それは当然初登場の「久しぶりね、会いたくなかったわ」あたりに象徴されているのだけれど、あの辺りをしっかりアニメ化されるとその性格表現が際立ってみえる。
 あとはまあ、ビジュアルからの補足か。英語クッキーは当然ながら、折木の絵もなかなかに演出の一役を担っている。折木の絵の上手さって特に言及なかったし。

 もう一つ難しいところは、推理の方向性において隠れた要素について。
 それは折木の台詞にある「千反田が納得するかどうかなのだ」。
 すなわち、謎に対する解決の一部は完ぺきな真実である必要はない。例えば一話後半でいう「女郎蜘蛛の会」がほんとうに存在するかどうかは話に全く関わってきていないように。千反田が納得すれば話は終わる。
 その点はもっとあらゆる場所で強調されないと、すごくぼやける。
 折木の推理が「真実で、かつそれが論理的な導きである」ことがなぜ必要なのかというと、「それが真実でなければならない」のではなく、「千反田が納得しなければならない」からだ。その二つはよく似ているし、「真実を明らかにする」ことでその両方が満たされる。
 原作ではその点があらゆる面から繰り返されている。「やるべきことなら手短に」「手作りチョコレート事件」ではその二つの理由を具体例で示している。
 「心当たりのある者は」は納得だけで終わる。それは目的が納得で終わるからだ。真実を確かめに行く、ということはない。

 そして、折木は数々の事件を通じ、「真実を確かめる行動」を起こすようになる。たまに。
 それによって、「確かめに行って間違いが分かる」であるとか「確かめたことで動機を知る」などの新たな発展をみせる。
 そういった点で古典部シリーズは多彩。
 アニメ版でもそれらがみれると思うと楽しみで仕方がない。