諦め続ける薬

忘れることは、疲れに対する最高の薬。思い出に対する最悪の薬。

書いて消すこと

 家に原稿用紙はたくさんある。でもあまり使わない。
 もともと文房具集めがほんの少し好きなので、レポート用紙とか便箋とか、使い切りもしないのに集め、引き出しの一番上に仕舞っておいた。それらは書くためではなく、集めるためだ。どうやら昔の私は何もかも揃っていてスタイリッシュな机を求めていたらしい。いわばそれらはインテリアとしての用法。

 書く行為としての文房具。
 最初に短編を書き始めた時はルーズリーフで、もろもろあってすぐにやめた。そのあたりはどこかのサービスで書いた気がする。いわゆる他の人に書いているのを見られて嘲笑された、という。
 ただ、その思い出したくない出来事とは別に、気づいたことがあった。手書きの煩雑さだ。「間違った時に一瞬で消せない」というもの。当然これは私自身の感覚で、そのストレスをなくすために、頑張ってPCを覚え、キーボード操作を練習した。いまでもキーボード上での指の置き方がおかしいのもたぶんそのせい。

 ノートでも、メモでも、間違った時に消しゴムや修正液で消すというのはそれほどストレスにはならなかった。
 でも、最初に短編を書いた時、その行動が驚くほど嫌になった。単なる文字ミスならすぐ直せる。だけど文節の入れ替えだとか文の位置変更、変換―すなわち漢字の記憶量―の違いがどうしてもいちいち引っかかってしまうのだ。
 今分析してみると、あれは「原稿が完成状態であってほしい」発露の一つであったのではないかと思う。校正記号や修正液でいくらでもなんとかなるはずなのにそれをしなかったのは、文章をそのまま読める状態に置きたかっただけなのだろう。
 原稿用紙にすらすらと文章が書かれているその状態を夢見ていて、自分の目の前にある紙の束がそうではないことに、ちょっといやになっていたのかもしれない。誰にも見せないのに、過剰な自意識。

 PCに移行して、ストレスは消えた。
 原稿をそのまま完成稿に持っていくことができるからだ。修正の簡便さはあまりに大きい。
 なんて言えばいいのだろうか、「完成稿」だと組版要素も含むけれどそういうわけではなく、いうなれば「終稿」。徐々にできていくそれを見ることで書き進めが楽になった。
 あくまで個人的な方法論。プロットやアイディアに関しては手書きメモも使う。……そうやって考えてみると、私の字の汚さに帰結してしまいそうな気がして、昔の記憶を思い出し、苦い気持ちになる。